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『ひきこもり探偵シリーズ』 主人公は神の方ではなく

 ミステリに見えるからと言って探偵が中心とは限らない。

『ひきこもり探偵シリーズ3冊セット』,坂木司著,東京創元社発行,2015年

 母親からの遺棄と高校時代のいじめられ経験がもとでひきこもりになった、聡明で非凡だが不安定極まりない青年・鳥井真一と、性善説と涙もろさを抱えつつ、同級生だった鳥井を支えることを生活の中心に置いている自称「平凡なサラリーマン」・坂木司を中心に、小さな出来事に潜む謎や不可解性を解き明かすシリーズである。

 解き明かされる謎は、事件というよりも、純粋なディスコミュニケーションの産物だ。無理矢理ミステリ用語に落とし込めば「ハウダニット」なのだろうけど、本格ミステリが描く「理屈だけが通っている“心に似た何か”」ではなく、あくまで心の問題を真正面から描こうとしている。

(ちなみにこの表現は悪口にしか読めないだろうけど、私の中では悪口ではない。本格ミステリは一種のパズルなので、「本当の心を描こうとしている芸術」に対するある種の誠意、もしくは作り物ですよという表明として「理屈だけが通っている“心に似た何か”」で在ろうとしているのだと思っている)

 このシリーズ世界の「事件」はディスコミュニケーションなので、最終的にはコミュニケーションと感情のやり取りによって、綺麗に解決する。
 上記の説明でもわかるように、見るからにある種の歪さと危うさを抱え込んでいる、雑な説明をすれば共依存の一言で片付けられてしまいそうな「主人公二人の関係性」という問題も、もちろんその例外ではなく、最後には解決――というか、解決に向かっていくのだろうなという手応えを描いて終わる。

 いい意味でも悪い意味でも若々しくて青っぽい文章、登場人物が知識や感情を披露する時の生硬で感傷的な語りは、正直読んでいて気恥ずかしくなるし、出てくる人々が次々と主人公二人に心を許してどんどん友達になっていく流れは、都合よすぎて胡散臭い感じがあるのだが……物語全体に充ち満ちた人間存在への誠実さ、少なくとも「誠実であろうとする作者の心がありありと伝わってくる」ことが、それをねじ伏せるに十分な威力を持っている。

★★★

『ひきこもり探偵シリーズ』と銘打たれて、実際探偵役を務めているのはひきこもりの鳥井なのだが、この物語にはちょっと面白い特徴がある。
 第2作「仔羊の巣」の解説で有栖川有栖さんが指摘しているが、探偵役である鳥井が、ある種の人間にとってどうにも好きになれない、感情移入できない特質を持っているのだ。
 純粋に迷惑で傍若無人で人の心を持たない変人なら「奇矯な探偵」という定型なのだが、鳥井は人の心があるのである。作中のコミュニケーション不全の謎をことごとく解き明かすのみならず、様々な人の振る舞いに隠れた心の傷を自分の心に重ね合わせて察知し、また高校時代には相手を傷つける意図を持って喧嘩になったクラスメートの自尊心をズタズタにするくらい、彼は人間の心を「わかって」いる。論理展開の帰結として「理解」するに留まらず、他者と感応する心を持っているのだ。
 わかっているにも関わらず、鳥井は坂木以外の他人を、初対面ですら「お前」呼ばわりして、人間として尊重しない。また坂木を傷つけた(と彼が判断した)人物には暴力すらためらわない。それでいて、自分は何かと傷ついて半死半生の状態まで退行してしまう。
「大人の頭脳と小学生の心」と坂木は表現するのだが、これはずいぶん甘い表現で、私に言わせれば「触る物みな傷つける不良少年の頭脳と、イヤイヤ期の2歳児の心」である。「言葉が通じないやつは嫌いだ」……いやオマエが言うな(笑)。
 2歳児なら我慢もしますよ。あるいはこっちが精神医療従事者みたいな専門家で相手が患者なら。でも普通の社会でやられては、こちらが鋼の心臓、あるいは言動を全部聞き流す不真面目さ、もしくは暴力性を甘やかせるほどの好意を持っていないと、とてもではないが友達付き合いできる存在ではない。

 そんな彼が、他者、それも自分が好意を持っておらず自分を傷つけないという保証もない本当の意味での「他者」を尊重できるようになるか、「他人を人間扱いできるか」というのが、解決すべき課題なのだろう……と思っていると、少なくとも明示的には、そうはならない。
 鳥井がついにひとりで坂木の部屋を訪問すること(を示唆する描写)でこの物語は終わるのだが、それは3巻に及ぶつきあいをがまんした読者からすれば凄まじい成長であることは理解できるものの、あくまで「成長を予感させる象徴」であって、結局明示的な描写としては最後まで、鳥井は「自分を好いて受け容れてくれる、坂木を中心とした輪の中の存在」しか人間として扱ってくれない。

 だが、そのことはこの物語の瑕疵とはならない。
 何故なのか。

 この物語の主人公は、徹頭徹尾、語り手の坂木司だからである。
「坂木が己の心の問題を解決する」というのがこの物語の使命であって、鳥井の心の問題は実は二次的なものなのだ。

 ★★★

 坂木が自分の心の問題に自覚的であるということは、物語の最初から意識されている。
 第1作「青空の卵」冒頭ですでに、鳥井と友達になった場面の説明において、坂木ははっきりと「彼の人格が弱っているところにつけこんで」「うなずいた彼の瞳を、ひそかな罪悪感とともに胸に刻みつけた」と述懐しており、再三「依存しているのは僕(坂木)の方」という意味の独白が出てくる。
 鳥井があまりにも強烈な「傷ついて心の問題を抱える青年」として物語の軸から動かないため、坂木の心の問題はなかなか正面から描写されない。が、基調低音としてずっと潜在しており、読者の目からははっきりと見えている。

 読者の目からは明示されているが、鳥井は「坂木がいてくれる」ことが人格の基本になっているので、現状を壊す坂木の問題は、存在を認識すらしない。
 他の登場人物たちも、鳥井の異常さを受け止めるのに精一杯なので、それを緩和してくれる坂木の問題に気付くのは難しい。
 そしてもちろん、次々に起こる「事件」を解決しなければならないので、坂木には正面から自分の問題を解決しようという決心をする余裕がない。

 という訳で、坂木が危ういバランスを保ちつつ、鳥井と坂木を中心とした輪が徐々に広がっていき、永遠にこれが続くのではないか……という空気が生まれる。そして創作なのだから、現実にはそんなことはありえなくても、この永遠を続けていってもよかったのだ。キャラクター小説として。そういう小説やミステリはたくさんあるのだし。
 だが、物語が、本当に人間の心に寄り添うということに誠実であろうとするならば、主人公たちを特権的なサンクチュアリに隔離する癒やしの道を選ぶことは自己矛盾になってしまう。

 かくして、坂木は自分の心の問題を自覚し、鳥井が分析するある「事件」をふまえた上で、自らの問題を解決するという重い選択を実行し、物語上の使命を果たすのである。

★★★

 とはいえ、坂木の心の動きを追っている読者としては、坂木の決断は理解も納得もできるし望ましいとすら思うのだが、表に見える言動だけで判断すれば、物語最後の彼の行動は相当に唐突なのは否めない。
 この作品は完全に坂木の視点でのみ描写され、それが動くことはないので、実のところ鳥井が何を考えているのかは曖昧である。
 いきなり坂木に「もう自分からは来ない」と宣言された鳥井は、退行を起こして泣きじゃくるが、さすがにこれは無理もないと思わされる。ここで鳥井に初めて共感できる、と言ってもいいくらいだ(笑)。
 普通なら、あるいは現実であったら、このやり方では鳥井は完全に世界と他者への信頼を失って、二人の関係が破壊されて終わる……となりそうである。
 そうならない理由付けとして、物語最終盤で明かされる滝本と美月の関係という「謎」が、いささか唐突に第3作で提示される。
 あれが、鳥井が壊れずに坂木の心に気付くための予習問題なのは明らかだ。二人の関係をあれほど完璧に理解し、「守っているつもりですがっている」とまで明言した彼が、少なくとも坂木が去ってひとりになった時間で、それが坂木と自分の相似であることに思い至ったのだろう……と読者が推測、というより納得するために、この問題が組み込まれている。

 その組み込み方があまりにも露骨なので、もうちょっとスマートなやり方はなかっただろうかという気持ちにはなるが、それも作者の若々しい生硬さとして微笑ましく見てもいいのかも知れない。

★★★

 ところで単なる妄想なのですけれど、鳥井と坂木という主人公二人の名前は、鳥居(神)と榊(供花、依り代、神職)を暗示しているのでしょうかね。

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