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かわいい・きれい・かっこいい問題 あるいは水晶の針の穴

 かなり前の記事だけれど、自問自答ファッション通信あきやあさみさんの「かわいい・きれい・かっこいい問題」が面白いので、自分の答えを書いてみようと思う。

「かわいい、きれい、かっこいいという言葉を自分自身に言ってあげたらどんな気持ちですか?」(または周りの人から言われたらどんな気持ちになりますか?)
という思考実験である。


「かわいい」は「はい、そうだと思います、私無害です」という感じ

 いきなりイヤな見出しになったが、私の中にある「かわいい」という言葉は、
「(この言葉を出す主体にとって)近しさがある、近づけても大丈夫むしろ近づけたい、守ってあげたくなる、そういうポジティブさ」
というものである。
 自分に近づいても大丈夫、自分が守ってあげたくなるということは、自分の手に負える範疇にあるということなので、そこには無害性や親近感や共感が含まれている。非常にマイルドに薄まっているが「目下に見る」「相手を自分の理解の範疇に閉じこめる」という感覚も含まれてはいるので、時々現れる「カワイイと言われると怒り出す人」の気持ちは、共感はしないが理解できる。若い子に「もーカワイイですねー^^」とか言われて「カワイイじゃねえよ」と苦笑する(あるいは不快がる)年長者がたまにいるが、お前に俺の何がわかる、みたいな気分なんだろうなと思う。

 私はその場にいる中で一番若い人、というポジションにいることが多かったので、かわいいと言われた経験もそれなりにある。ポジティブな反応を得られることはとても有り難かったので、素直に受け取っていた。嬉しいというのとは違う。褒め言葉というよりは「ここにいても大丈夫らしい」という安全保障を得られた感覚に近い。
 そして今は年を食って無愛想になったので、そう言われる場面はグッと減ったが、特にショックもない。逆に言われて不愉快ということもない。言われたら今でも有り難いと感じる。安心感がある。

「きれい」は「神の恵みに感謝します」という感じ

 かわいい/きれい/かっこいいの中で、一番ニュートラルに「よきもの」を表現していると感じる言葉が「きれい」だ。「美しい」よりもニュートラルだと思う。なので言われたら一番嬉しいと思う。
 外見が整っていることや、純粋であることや、逆に複雑であることや、心持ちが良いと感じられること、その様々な「よきこと」を表現できるのが「きれい」だ。ニュートラルな言葉だけれど、そこに「透明感」「透明性」みたいなニュアンスがある。
 そして私の中では、例えばモデルや俳優のように「努力とリソースを注いで作り上げている」と感じる存在は「美しい」と表現し、「きれい」とは言わない。きれいはニュートラルと言ったが、あまりにニュートラルすぎて、そこに人為性が入る余地がない。
 つまり人間の美しさに対して使うよりも、花や空や鳥や色のような自然に対して使うことが多い。
 人間に対して使う時は、外見よりも「生まれながらの善性(が外圧に負けずに花開いた)」みたいなものに対して使っている気がする。生来の問題を長年の努力によって克服して磨き上げた結果として生まれる良さについては、「美しい」とか「深い」といった称賛をしていると思う。完璧に作り込まれ過ぎて私が人為性を認識できない場合は、「きれい」と言っているはずだが。

 きれいと言われたら、嬉しいが、自分の努力で得たものではないので、褒められたというよりも「自分をこう作ってくれた神とか環境とか色々なものに感謝します」という感じになる。
 でも嬉しい。私は天然自然を好むので、一番「あるべき姿に沿っている」と認識できる褒め言葉なのだろう。
 失われたら悲しいと思うが、とはいえ「まあもともと私のものではないしな。神が与えたものは神が奪い給う」みたいな結論になりそうである。悲しいだろうけど。

かっこいいは「たぶん誤解してます」という感じ

 一番「ないな」と思うのは「かっこいい」という言葉だ。私の中では「かっこいい」は、有能性の象徴である。審美性とはほとんど関係ない。あえて美の範疇に入れるなら機能美。実現できてなくても、有能性を目指している過程や、有能になるだろうなと感じられる可能性にも使う。
 自分にないものなので、外を見渡すと非常によく目に付く。人間に対して一番よく使ってる褒め言葉じゃなかろうか。
 ただし、有能性であってそれ以外ではないので、実際に使う場面では褒め言葉じゃない時もある。たとえば人を殺す武器も、暗殺者の動きも、それ自体には「かっこよさ」があると感じる、何しろ機能のカタマリなので。でもそれを良いものだとは思わない。

 もし他人から「かっこいい」と言われたら、不安になる。何か勘違いされているぞ、応えられない妙な期待をされているぞ、と思うからだ。まあでも、さすがにもう若くはないので、若い人・若い頃に比べればできることは増えており、「かっこいい」場面もあるのかも知れない。でも実感は全然ない。

では一体私はどう褒められたら嬉しいのか

 ……こうしてみると、私の中には「努力して自分を改善して何かを達成した自分」に対する褒め言葉があまりないことに気付く。
 どうも努力に対して、そんなにポジティブな印象がないらしい。それは、努力するなんてダサいとか、努力しないで成功してこそ才能、みたいなアレな思い込みとはちょっと違って(まぁそういう痛い要素もゼロではないのだろうが)私にとって努力というものは、基本的に「他人の要望に合わせて労力を費やす」という意味合いがあるからだと思う。
 逆に、こうして益体もない文章を自分なりにはうんうん頭をひねってドタバタしてあれこれ書いている行為は、数十時間かけた文章を全ボツにするような苦痛や労力の消費があろうとも、私の中では「努力」ではない。自分の好きなことを好きにやっているだけ。本当に自分のためだけにやっている苦行というか、はっきり見えてないのだけれど確かにある「自分が納得する自分」を結晶化させている過程である。
 そこには自分以外の、あるいは自分を超えた何か大きな目的のために自分を捧げているあの崇高なイメージがない。努力とは、私にとってそういう崇高な献身を意味する言葉で、崇高だけれど自分がやろうと思わないことなので、努力を褒められることに常に他人事みたいな感想を抱いている。
 同時に、他人からしてみたら、私のやっていることが無意味であるのはしょうがないよなという諦めがある。せめて有害ではないように努めてはいるが。

 私が一番嬉しい褒め言葉は、まず自分自身が納得できる状態になっているという前提があって、その状態に対して、他人に(望むらくは私が尊敬し好きである他人に)「あなたがそういう状態になっていることで、私にもいい影響がありました/新しい発見がありました/世界に対する見方が増えました」と言われることだと思う。
 自分自身が納得できるというのは、自分が考えていること・見えている世界が過不足なく可視化されている状態であり、「腑に落ちた」感覚がある状態だ。それをたまに(ごくたまに)文章として形にできることがあって、それが(さらにもっとごく稀に)他人が読んだ時に何か意味を持つ。それが私が一番「褒められた」と無理なく実感できる瞬間である。

 それは、水晶でできた繊細な針の小さな穴に、細い細い絹糸が通った瞬間のような奇跡で、コンスタントに得られることを求めるようなものではないのかも知れない。私がやるべきことは水晶の針を研ぐことで、絹糸が通ることは神様に預けるしかない。
 そういう感覚が、「褒め言葉」という存在に対して私が抱いているものである。

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