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22. 聖書 / The Bible


ロバートも私も、聖書について学ぶことには、
まるで興味がなかった。

⭐️バーバラ⭐️

1978年のクリスマスの前の週、私たちは3つのオープンハウス(※訳注:開催中、出入りの自由な気軽な形式のパーティー)の集まりに招待された。
当然のことながら、いくつかの会話で宗教的な話題となった。
私たちは、聖書を引用して話す人びとと、何の問題もなく、そして気持ちよく意見を交換できるということを発見した。
真実は、宗教的な教義の違いを越えて繋がり合うことができると知って、私たちはとてもうれしかった。

何度かにわたる、こうした宗教的な会話において、まったく同じ出来事が起こった。
毎回、会話の最後に私たちは、「きみたち、聖書を読むべきだよ」と言われるのだ。
最初のとき、私たちは愛想よく笑っていた。
2度目に起きたときには、「あらまあ。これって聖霊が私たちに語りかけているのかしら?」と思った。
3度めには私たちは、こう言った。「わかったわ、聖霊、あなたのガイダンスは聞こえています。なぜ私たちに聖書を読ませたいのか、私たちには想像できないけれど、でも読みましょう」

私は、ジェームズ王欽定訳を買い、ロバートはラムサ聖書を選んだ。
私たちは、他にもいくつかの異なる版の聖書と、それに加えて、チャールズ・フィルモアの「啓発的な言葉」、「聖書の形而上学用語辞典」、「創世記の神秘」、そしてラムサによる旧約および新訳聖書の解説を用いた。

私たちは毎日、奇跡講座の学習に続いて、聖書の少なくとも3章分を読了するようにした。
およそ11ヶ月のうちには、最初の通読を終えた。
聖霊、またしても、ありがとう。私たち、聖書がとても気に入りました!
それから一年ほどのあいだ、私たちは毎日、新約聖書を読み続け、いまでは、いつでも促しを感じたときに聖書を読むことにしている。

私たちは、長老派教会の独身信者のグループのために講演してほしいと、日曜の朝のクラスと午後のセミナーに招かれた。
講演の前日になって牧師から電話があり、教会信徒のひとりから、教会で奇跡講座を扱わせるべきではないと説得されたという。
私は彼に、もし私たちを招ぶことに少しでも躊躇いがあるのなら、講演をキャンセルしても構わないのですよ、と伝えた。
私たちは、平安と調和とワンネスについて教えることに興味があるだけなのだから。
牧師から、奇跡講座の名前を出すことなく、クラスとセミナーをしてもらうことは可能だろうか、と訊かれたので、私は「聖霊に、それが彼が私たちにさせたいことなのか、尋ねてみますね」と答えた。

聖霊に尋ねたところ、私が受け取ったのは、まぎれもない「イエス」だった。
そこで私は牧師に、奇跡講座に触れずに話すことは可能だし、やらせていただきたい、と伝えた。
私たちには、奇跡講座における真実は聖書のなかでも教えられており、聖霊が私たちを通して伝えたいことは、聖書についての知識のみを使っても教えられるはずだとわかっていた。

その朝、教会へと車を走らせながら私たちは、この1日をとくと味わおうという熱意にあふれていた。
出発前に、「私は真に助けとなるためだけに、ここに居る」の祈りを唱え、聖霊に、私たちは奇跡講座については口にしないこと、その約束を守れるよう聖霊が助けてくれると信頼していることを、ふたたび念押ししておいた。
その日、私たちは5時間のあいだ話したが、一度たりとも、奇跡講座について触れることはなかった。
けれども聖書については、頻繁に、そして喜んで、言及した。

終了後、ヴァンのなかで帰途につく支度をしながら、ロバートと私はお互いを見つめ、叫んだ。
「聖霊が私たちを通してやり遂げてくれた、なんて簡単だったのかしら!」
またお互いに、自分たちの奇跡講座への感謝がどれほど深まり拡がったかを言い合った。
毎日行なう体系的な練習の「コース(過程)」なしに学ぶひとたちは、学んでいる概念を自らの人生において実践する上で、たぶん、より長い期間、困惑と困難のときを味わうことになるだろう。
私たちは、奇跡講座がどれほど貴重なツールかということを、真に理解した。
でももちろん、その日私たちが得た、より深いレベルの感謝は、聖書を学ぶようにという聖霊のガイダンスに従うことなしには、起こり得なかったことだ!

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