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15. 驚き / Surprise

結婚して数ヶ月が経った頃、
ひどいことが起きた。

⭐️バーバラ⭐️

私は、ロバートが居間のテレビのスイッチを入れたのを聞いた。
それ自体、じゅうぶんにめずらしいことだったが、彼はチャンネルをフットボールの試合に合わせたばかりか、ゲーム終了までをすべて観たのだった。

これまで私が何年ものあいだ知っていたロバートという人物は、テレビなどまったく見なかったし、フットボールに興味などなかった。
このひとはいったい誰なの?

まもなく彼は、テレビのスポーツ番組を頻繁に観ては、毎日二紙の新聞を読むようになり、私たちを訪ねて来るほとんどの人たちを無視するようになり、そして大量のポップコーンを食べて、太り始めた。
このひとはいったい誰なの?

このひとが誰であろうが、私は殺してやりたかった。
私は裏切られたと感じていた!
私が、カウンセリングやら電話の応対、手紙の返信、セミナーなどをほとんどひとりでこなし、そうやって得た寄付によって、私たちふたりを養っていたのだ!
もし私たちが奇跡講座のレッスンを毎日実践していたのでなかったら、いったい何が起きていたものやら、私にはわからない。

ロバートは、ふたりで行なう朝の2時間のルーティンは続けていた。とは言え、毎朝私が、起きなさいとうるさく催促していたのだった。
ときとして彼は、瞑想中や、コースを読んでいるあいだに居眠りをしていた。
このひとは、いったい誰なのかしら?

けれども私にはわかっていたーーわかっていたのだ。自分が、奇跡講座で学んでいるすべての概念を生きるーーほんとうに生きるーーための機会を与えられているのだと。
何かを変えようとするのは、解決策ではない。
私自身の内なる変化だけが、私に平安をもたらしてくれる……私の外側のなにものも、それをしてはくれないだろう。
私には、毎日のレッスンのひとつひとつを真に生きるなら、私の心は平安になるだろうとわかってはいた。けれども、私は殺意を感じていた。
私にわからなかったのは、いったいどうやったらそんなレベルの赦しと愛を生きられるのか、ということだ。
私は、ロバートに変わってほしかった。

それでも私には、それが狂気であるだけでなく、まったく真実ではないこともわかっていた。
ロバートは、神の言われる通りの彼……罪がなく、完璧で神聖……であるか、または、私が思う通りの彼であるかの、どちらかだ。
私は神が正しいことを知っていた。でも、ああ、私の知覚がどれほど、それとはかけ離れたことを「語った」ことか。

恐れや罪悪感からロバートをコントロールしようとするたびに、私は、自分がその日の奇跡講座レッスンを生きてはいないことを、認めないわけにはいかなかった。
だとしたら、裏切り者は私なのだ!
私が私たちふたりのなかに「見て」いたものに、私はうんざりしていた。
私は寝室の床にこぶしを叩きつけながら、真実を生きる強さを与えてくださいと、イエスと聖霊に懇願した。
自分で真実を生きてみない限り、イエスが約束するとおりの結果が得られるかどうか、ほんとうの意味で知ることはできないと、私にはわかっていた。
あきらめるわけにはいかなかった。
もし奇跡講座がほんとうに真実だったとしたら、どうだろう?

みじめな気持ちのまま、何ヶ月もの時が流れた。
平安が感じられ、悲しみが一時的に晴れることもあったが、それはきわめて稀だったし、わずかな時間しか続かなかった。
私はたいてい、どうしたら自分の怒りを克服できるのだろうと足掻いていた。
毎日のレッスンが、私の抵抗を、あらたな光のもとで見せてくれているように思えた。

⭐️ロバート⭐️

僕のほうも、もちろん、大きな学びを経験していた。
パートナーとの関係に献身することへの恐れは、なじみのある感覚だった。
突如として、いままたふたたび、僕に何かが期待されているのだ。僕は実際に、チームの一員になったのだ。

僕は別れて出て行くことを考慮したが、パートナーを変えたところで、僕自身の学びを遅らせることにしかならないと思い出しただけだった。
ほんとうの変化は、内側からしか起こらないのだ。

奇跡講座を学ぶことで、自分の知覚における虚偽があらわになっていった。
コースが教えていることが、僕には理解できた。
それを実際に生きることさえできたなら!
僕の欲求は強かった。
僕には、知覚を変えるためには、継続的なプラクティスが必要だということがわかっていた。
だから、このつらさから逃げ出したい、と願いながらも、僕は踏みとどまったーー抵抗と、辞めたいという気持ちの真っただ中にありながら、奇跡講座の実践を続けた。

それでも、僕はほんとうに抵抗した!
大食し、観れるかぎりすべてのフットボールの試合をテレビで観た。毎日新聞を読んだ。外側で起きる出来事についての考えで頭をいっぱいにし続けた。
人付き合いはあまりしなかった。
僕はときとして、ほとんど殻に閉じ籠もってしまうこともあった。

僕は逃げ出しこそしなかったが、かと言ってあの頃、献身的なチームの一員として振る舞ってもいなかった。
バーバラと僕はふたりの関係を、この世界のなかで神に使ってもらうために捧げていた。
それが、僕たちが一緒にいることの目的だった。
ワークブックのレッスンのひとつに出てくるステートメントが、僕の心に刻まれている。

「救済をあなたの唯一の機能(はたらき)として完全に受け入れることには、必ず次の二つの局面が伴う。一つは、救済をあなたの機能として認識することであり、もう一つは、あなたが自分のために作り上げたほかのすべてのゴールを手放すことである。」
奇跡講座 W-65.1.5

この当時は、僕にとっての分岐点だった。この先も聖霊への道を歩き続けるなら、僕のすべてを差し出さなけなければならないのだ。

僕の不平不満を瞬時に「治癒」させてしまうような、突然の理解が訪れたという記憶はない。
それよりはむしろ、実行すべきプロジェクトやアイデアをこなす上で、次第に活動的になっていったというかんじだ。
やるべきことがあったのだ。
僕の一時的な優柔不断によって、世界は歩みを止めたりはしなかった!

⭐️バーバラ⭐️

いまになって振り返ってみれば私にも、私たちそれぞれのなかに、またお互いのあいだに、愛と信頼の力があったのを感じることができる。
起きているすべてのことは、愛することについてのレッスンであるということを、私たちはふたりとも知っていた。それらは実際のところ、私たちそれぞれがお互いとの関係において作り上げてきたあらゆる間違いを、浄化するべく起きているのだということを。(そして、相手もそれを知っているということも、知っていた)。
私たちは、自らのうちにある愛ではないものすべてを一変させるために、献身していたのだ。
以前なら欠点として見ていたことを見過ごせるようになっている、と気づき始めるまでに、あれほど長い期間を要することになるとは、私たちのどちらも思ってもみなかった。
私たちは、以前より、お互いとともにいることを楽しむようになり、ひとつのチームとして協力し合うようになっていた。

もちろん私たちは、いまでも、お互いのなかに知覚する自分の間違いを訂正し続けている。

「私は本当に彼を罪なき者と見たいだろうか」
奇跡講座 T-20.VII.9.2


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