見出し画像

3. イエス / Jesus

⭐️バーバラ⭐️

奇跡講座を4ヶ月学んだ後に、私は「教師のためのマニュアル」のなかの、「イエス・キリスト」と題される箇所にたどり着いた。
私は、その章を読み始めるのをためらった。
この時点に至るまでの私の奇跡講座の学習は、そのロジックや、教えのシンプルさに刺激され、鼓舞されていた。
さて、私はイエスについて、いったいどんなことを読むことになるのだろう。
もしそれが、ずっと昔に私が拒絶した、古い概念と同じものであるなら、私にとっての奇跡講座のすべてが、台無しになってしまいかねない。

読んでみると、私はそこに、ついに、イエスについての真実を見出した。

私は、安堵と感謝の涙を流した。
彼こそ私の救い主だった。
イエスは、その人生と教えにより、長年に渡る、またいくつもの輪廻転生に渡る奮闘や苦悩や痛みから、私を救うことができるし、また救ってくれるだろう。
彼は、その人生の最後の日々、十字架刑の前およびそのさなかにおいて、この地上におけるどんなことにも、私たちの心の平安を犠牲にする価値はない、ということを示してくれた。
イエスは、彼のもっとも親しい友人たちに裏切られ、公然と辱めを受け、打たれて、唾を吐かれ、最終的には十字架に架けられ、殺されたかのように見える。
しかし、その過程のすべてにおいて、彼は心の平安を保ち続けた。
心の平安を保っただけではない、彼はすべての者を赦したのだ……
彼らがしたことを赦したのではなく、「彼らが自分が何をしているのか、わかっていない」ことを赦した。

私たちが、自分自身の恐れ、痛み、怒りに満ちた在り方から救われる潜在的能力を持っている、という実例を示してくれる者は、誰であれ、間違いなく私たちの救い主である。

私は、自分がイエス・キリストにより救われていて、また彼の弟子のひとりであり、彼の教えを教える教師たちのひとりであると、少しの疑いもなく思っている。
自分にでき得る最善を尽くして、奇跡講座が指導しているとおりに彼の教えを生きている。
聖書に、「神を愛し、お互いを愛し、自分自身を愛しなさい」とのイエスの言葉があるように、イエスの教えの意味するところは、聖書においても奇跡講座においても同じである。

「教師のためのマニュアル」の最後の節でイエスは、もし私たちがイエスを自分の人生に招き入れるなら、彼は私たちをもっともっと助けることができるし、彼の教えに従うことを容易にすることができる、と言っている。
この旅路に明らかに必要な助けを、受け入れないように抵抗するなどということは、頑固な愚か者のすることに私には思えた。
私は目を閉じ、
「わかりました、イエス。今回こそ降参します。
どうか私の人生へと入っていらして、この変化のときを通して、私とともにあってください。
そして、どうぞ、あらゆる苦しみと痛みから、できる限り私を救ってください。
私たちのことを決して見放さないでいてくださって、ありがとうございます」
というようなことを言った。
そうして座っていると、安らかさと静けさを感じて、私は、自分がたったいま、賢明で、強力なことを行なったことを確信した。

私はイエスに、たいせつな友人に対するように接している。
……頻繁に彼に語りかけ、私の痛みや喜びをわかち合う。
そのようにすればするほど、私たちの関係は、より近く、より現実のものとして感じられるのだ。
イエスの存在を自分の人生のなかに感じられることは、うれしく、素晴らしいことだ。
私の内に彼の愛があることを思うと、私は幸福感に満たされる。

私とロバートが、自分たちの人生のなかにおけるイエスについて語り始めるにつれ、人びとはイエスの名を聞くことに居心地の悪さを感じるらしいことに気づいた。

膨大な恐れ、怒り、罪の意識がイエスと関連づけられているのだ。
ロバートは、イエスについて、恥ずかしさの感覚を持っていることに気がついた。
このことについて瞑想してみたところ、彼は、もう何年も前に聞いた、あることを思い出した。
……それは歌で、このように始まる。
「雨が降ろうと、凍れる寒さだろうと、気にしないさ。
僕の車のダッシュボードに、プラスチックのイエスが座っていてくれる限り……」
ロバートは、イエスを恥ずかしく思う彼の気持ちに対する「治療法」は、プラスチックのイエス像を、みんなに見えるように私たちの車のダッシュボードに置くことだ、という考えだった。
彼からそのことを伝えられたとき、私はあんぐりと口を開けてしまった。
あの「プラスチック・ジーザス」の歌がリリースされたとき、私の知る誰もが、物笑いの種にしてからかったものだ。
我々の車のダッシュボードにイエス像があるのをみんなに見られたら、いったい何と思われることだろう?
たぶん私が無視すれば、この案は消えてなくなるだろう!という前提のもと、私はこのアイデアについてのコメントを、なるべく控えることにした。
ほっとすることに、彼もこのことについてふたたび口にはしなかったので、数日後には私は忘れてしまったし、ロバートも忘れたのだろうと思っていた。

何週間か後、ルイジアナ州に向かって車を走らせていたとき、私たちは、食料品を買うために州間高速道路10号を降りて、サルファーの町へと入った。

食料品店の隣にキリスト教書店があったので、私たちは立ち寄ってみることにした。
ロバートがうれしげな声をあげて笑うのを聞いて、私は、何があったのかと振り返った。
ああ、何てこと……彼の手のなかにあったものは……、42セントの、プラスチックのイエス像だった!
ロバートは、何軒ものキリスト教書店を巡ってみたが見つからなかったので、あきらめかけていたんだ、と言った。
本当にこんなことになってしまうなんて、私には信じられなかった。

店を出ながら私たちは、イエス像を見つけて実際にダッシュボードに置くという事態に、おかしくて笑ってしまった。
私がダッシュボードのほこりを拭きとるあいだに、ロバートはテープを見つけ出した。
ロバートが、両面テープを像の足に貼り付け、ダッシュボードに押し付けるあいだも、私たちはクスクスと笑い続けた。
イエス像を眺めてみるために、シートに座ると、突然、私たちの目に涙があふれ、深い愛と平安の感覚に満たされた。
私たちはしばらくのあいだ静かに座り、幸福感に満たされながら、イエスの永遠の愛に感謝を捧げた。

それがダッシュボードの上にあった何年ものあいだ、イエスの像は私にとって、真実を思い出すための素晴らしいリマインダーだった。

またそれは、よい話題の種にもなってくれた。
置くことにして、ほんとうに良かったと思う。
私たちが車をヴァンに買いかえた際、イエス像はプリマス(車種名)とともに残るべきだということが、はっきりとわかった。
私たちはプリマスを、私たちのはじめてのミュージック・テープである「聖霊は歌う」と、「聖霊は歌う ソング・ブック」に、すばらしい絵を付けてくれたベック・オズワルドに譲ることにした。
彼女は、「有名な」イエス像が付いた車を手に入れることを、喜んでくれた。

以前贈り物でいただいた、小さなすてきなイエスの絵があったので、ロバートがそれを額装し、ヴァンのフロントガラスのすぐ上に飾ってくれた。
それはいつでも、イエスの次のような教えを思い出させてくれる。
「あなたの為し得るいかなることも、永遠の愛を変えることはできない。」

⭐️   ⭐️   ⭐️

文中に出てくる、「Plastic Jesus」の歌。
バーバラの周りの人たちは、なぜこれを笑い種にしたのだろう、と思うほど、このカバーは素敵です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?