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12. ガイダンス / Guidance

⭐️バーバラ⭐️

ガイダンスをめぐるあれこれは、もしかしたら自我にとって、疑いや混乱、罪悪感や恐れを肥大させるための、恰好の土壌となる分野かもしれない。

しかし何よりもまず私が確信しているのは、もしあなたがただシンプルに(シンプルかしら?)、奇跡講座のワークブック・レッスンを毎日順番通りに行うなら、聖霊の導きを経験することを妨げるどんな障害をあなたが持っているとしても、それらは消えてなくなるだろう、ということだ。
あなたがこの教材を使っているという、ただその事実が、好むと好まざるとに関わらずーーロバートはいつも、「好むと好むとに関わらず」と言うーー、またあなたにその自覚があろうとなかろうと、あなたは聖霊に導かれている、という証拠なのだ。

ガイダンスについての質問や懸念には、以下のようなものがある。

「自分が導かれていると、どのようにしてわかるのか」

「もし自分が『間違った』ガイダンスに従っているとしたら?」

「声が聞こえなければ導かれてはいないのか」

「もし自分とパートナー(友人、ルームメイト、ビジネスパートナーなど)が、『相反する』ガイダンスを受けとったら?」

「聖霊のガイダンスは私に、配偶者や子どもの元を去るとか、契約に違反するとか、太る、財産をすべて手放す、学校を辞める、などのことをさせたりするだろうか」

「聖霊のガイダンスに従うことで、私が愚か者のように見えることはあるか」

「聖霊のガイダンスに従ったら、私は何かを犠牲にしたり、苦しんだりしなくてはならないのか」

これらの質問について具体的に論じるよりも、私が聖霊のガイダンスを信頼するようになった、個人的な経緯を紹介したいと思う。

毎日一課のワークブック・レッスンを行うことを含め、奇跡講座を実践するようになってからというもの、私の人生は以前より「くっきり」とした輪郭を持つようになり、無意識だったり、ぼんやりとした感じというのが減ったように思われた。

私は、真新しい思考が、私に気づかれるのを待っており、私が耳を傾けるのを待っている、ということに気づけるようになった。
それは明らかに、古い焼き直しの思考ではなく、新しいかたちで言い表されるべき何か、たぶん、新しい観点と言うべきものだった。
わくわくしながら私は、その有用性を確かめるため、そうした思考にもとづいて行動し始めた。
だって、実際に行動してみる以外に、どうやって確実に知ることができるだろう?

何をすべきか「正しい答えを見つけ」ようとすると、いつでも、何もかもが混沌とするように思える。

ある状況について、どうするべきかを自分が考えていることに気づいたら、私はそうした思考と格闘しないようにする。
そのかわりに、思考が気づきの光に当たるように促してみる。
ときには、自分がその件について持っているアイデアをすべて、箇条書きにしてみたりもする。
すべて出し終えて空っぽになったら、そこでこう言うのだ。
「オーケー、聖霊、これで全部です。
さあそれじゃ、あなたに導いてくださいとお願いするわ。
どうもありがとう」
そうして私はただくつろいで、導いてもらえるはずだ、と信頼する。

誰でも、尋ねたのに答えは来なかったように思える経験をしたことがあるだろう。

けれども、聖書においてイエスがこう言っている。
「求めよ、さらば与えられん」
あるとき瞑想中に私は、このときイエスは明らかに、ガイダンスについて話していたのだ、と悟った。
導きを求めなさい、そうすればあなたは受けとるでしょう。

私は、「求めよ、さらば与えられん」が、ガイダンスに関して当てはまるのかどうか、実験してみようと決心した。

1日のうち、考え得るかぎり頻繁に、ガイダンスを求めた。
聖霊について考えるたびに、彼が私の人生を導いてくれていることに感謝し、どうかこのまま導き続けてください、とお願いした。
そのあとは、具体的に声を聞こうが聞くまいがただ単純に、自分は導かれている、と見なすことにした。
私の人生に現れたその結果は、私がしなくてはならないことは、ガイダンスを受けとるために尋ねることだけだ、ということを証明してくれた。
私は、頻繁に立ち止まって静まり、それから、何をするよう促されているかに注意を向けるようにした。

ワークブックのレッスンの最初の部分は、私たちの現在のものの見方を取り消すためのもので、その結果私たちは、自らの人生を愛に満ちた全知の源に委ねて導かれたい、と望むようになる。
ワークブックのレッスンを行うことで、あなたの心はクリアになり、より容易にガイダンスを受けとるようになる、ということを私は強調したい。

また私は、自我はドラマチックな表現のガイダンスーーーはっきりと聞きとれる内なる声や、「しるしや不思議な業(訳注:※1 文末参照)」ーーを欲しがるけれど、私がもっともよく受けとるのは、穏やかな衝動や静かな思いつき、または誰かが提案してくれたことについて自らの内側で感じる共鳴、などであることに気づき始めた。

私はガイダンスを、自然で日常的な、人生の現実として経験している。

電灯のスイッチを点けたあとで光に照らされても、誰も興奮したりはしない。

暗闇が光と争うだろう、どちらが勝つだろうか、などと考えたりもしない。
いったん光のスイッチがオンになれば、暗闇は単に消え去るのみだ。
それが、ガイダンスについての私の経験である。
いったん私が聖霊にガイダンスを求めたなら、自我は無力となる……光が招かれるとき、闇には何の力もない。

「だけど、もしどうかして私が自我のガイダンスに従っているとしたら?」

私は、聖霊が熟練の教師であり援助者であると確信している。
また、もし私たちがどうかして自我に従っていたとしても、聖霊にガイダンスを求め続けるなら(自分で道を「逸れて」しまっていると気づいていようがいまいが)、どこであろうと私たちがいるその状況において、聖霊はただ私たちを抱きとめ、私たちのみならず、その状況に関わるすべてのひとにとって良いようにはからってくれると、私は知っている。
私はよく、こんなふうに言うようにしている。
「聖霊、私はここにおります。
もし私の人生のいずれかの分野において、私が訂正を必要としているなら、心を開いて受け入れることを望んでいます。
どうか私を導き続けてください。ありがとうございます」

私は、ガイダンスに従おうという意欲を阻む防壁となっているもののひとつに、他者から認められたいという欲求があることに気づいた。
行なったり、話したりするようにと導かれたことについて私が、恥ずかしいと感じたり、また人から頭がおかしいとか、冷酷だとさえ思われるだろうと知りながらも、敢えて聖霊のガイダンスに従うとき、自分は関係者全員にとって最善の結果へと完璧に導かれていた、ということが、遅かれ早かれ必ず証明されるのだった。
最初のうち、与えられたガイダンスに従うことには多大な勇気を必要とする。
これは、信頼する、ということにおける、素晴らしい冒険なのだ。

聖霊のガイダンスに従うことは、私にとって、この世界が与えてくれる体験のなかで、もっとも刺激的なものだ。
それは、登山やハングライダー、スキー、洞窟探検、カーレース、サーフィンなどの、すべての要素を兼ね備えている。
すなわち、絶えず変化し続ける状況に対処すること、未知なるもののなかへと速やかに入ってゆくこと、底なしの深淵へと飛び降りる感覚、抵抗を克服しようと奮闘すること、通り抜けるプロセスやその結果において感じる、強烈なスリルと歓び。
1日24時間フルタイムでの冒険だ。

ワークブックのレッスンを実践することが、あなたを聖霊のガイダンスへと開いてくれるだろうということを、私はふたたび強調したい。
そのときまでは、聖霊はたくさんの「浄化」作業をしてくれる。
だからこそ、私たちはレッスンの実践をこれほどにも重要視するのだ。

ところで、私と誰かがふたりで、または複数人で協同して活動する上で、導きを求めて祈り、それぞれ「異なった」答えを受けとったように見えるときはいつでも、私たちの双方が明らかに、まだほんとうには心を開いていない。

それを認めることが、助けになる。
それから、自分たちが受けとったと思った答えを手放し、心をクリアにしてほしいと頼んだ上で、もう一度答えを求めればいい。
ときとして私たちは、この全プロセスを、何度も行なうことがある。
自分たちが、こんな答えが欲しいという具体的な希望を持っていることに気づき、大笑いしたことが何度もある。
奇跡講座が言うように、「どんな状況も全一に真理に捧げられるなら平安は必然である」(訳注:T-19.Ⅰ.1 ※2 文末参照)ことを思い出し、「私の受けとったガイダンスが正しい」という気持ちを手放したことも、何度もあった。

突然、真理が訪れ、目的が調和するのが感じられる瞬間は、ほんとうに心躍る体験だ。

聖霊のガイダンスに完全に委ね切ったときには、必ずそれと実感することができる……ものすごい安堵感と愛が、私たち双方のあいだを満たすのだ。
すると、ガイダンスがどんなものであるかは、ほんとうに取るに足りないこととなる。
私たちが従うことができるように、ただ「聞き」たい、それだけとなる。

聖霊のガイダンスが、私の仕事や、家族、またこの世界における道徳をおろそかにするよう指示したことは、これまで一度もない。

それとは反対に私は、聖霊の導きに従った結果、より良い仕事をするようになり、より道徳的になった。
聖霊のガイダンスに従おうという意志により、誰もが恩恵を被ることになる。
怖がらないで。

「神の声は一瞬も止むことなく、私の想念を方向づけ、行動を導き、歩みを先導する。私は真理に向かって、着実に歩いている。」
奇跡講座 W-60.4.3-4

訳注 ※1:しるしや不思議な業
イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。 - 『ヨハネによる福音書 4:48』(『聖書 聖書協会共同訳』)

訳注 ※2:「どんな状況も(any situation)全一に真理に捧げられるなら平安は必然である」(T-19.Ⅰ.1)
テキスト内の元の文章は、「状況が(a situation)全一に真理に捧げられるとき平安は必然である」。

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