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束の間の一花

きのう、とあるマンガを読むためにインストールしてあるパルシィというアプリで、サービスの無料チケットをもらうために、勧められたマンガを一話、読んでみた。

お風呂のなかで、暇つぶしに読み始めだのだけど、「これはつづきを読まなきゃ」という気にさせられて、たまっていた無料チケットをつぎ込み、また最後の有料の数話は課金して、だらだら汗をかきながら長風呂して、最後まで、読んだ。

それは、『束の間の一花』という物語で、すでに完結している作品なのだが、どうやらいま深夜ドラマが放送されているらしく、そのためにオススメされたらしい。

一話だけ飛ばし読みして、無料チケットをもらうために開いたのに、どうしてきちんと内容を読み始めたのか、わからない。

なぜなら、にがてなタイプの物語だからだ。
主人公が、余命宣告を受けた若い女の子なのだ。

ふだんの私は、そういうのは、読まない。

YouTubeでも、なぜだかときどき、余命宣告受けて闘病してます、という類いのがタイムラインに上がってくる。

ほぼほぼ、開かない。
(ごめんね、彼らを応援してないわけじゃない。)

しかし、なぜだかきのうは読んで、そうして、最後のほうの、とあるシーンで号泣した。

一花ちゃんが、玄関で号泣するシーンで、いっしょに。

ところで私は、胸のあたりに悲しみのエネルギーが蓄積されていることに、ここ数年、気づき続けていて、それは言わば「泣きたいのに泣けなかったときのもの」という感覚があるのだけれど、なかなか、ばーんと気持ち良くは解放されて出て来ない。

それがきのう、一花ちゃんといっしょにわーんと泣いて、そのとき肌に触れるように近づいた感覚があり、あぁー、この胸の感覚は、死の信念なのだ、ということを体感した。

この感覚は、私の人生のあれやこれやのシーンのなかに、あったなぁ、と。

それらのシーンというのは、必ずしも死と直接関係のあるものでは、ない。

でも、やはり死の信念ではあった。

それは、死が、病が、喪失が、剥奪が、断絶が、欠如が、そして分離が、

私たちのリアリティだ!!!

という信念だ。

私のスピリチュアル・パスは、14で母を亡くしたことと、そのときの未解決の想いをきっかけに始まった。

胸の蓄積された悲しみは、ただそのことのみのせいではなく、もっと前の生のときのこと、それどころか、「私」個人のものではなく、もっと集合的な何かだ、ということも感じはするのだが、それでも、わーんと泣いて、悲しみがいつになくストレートに解放された瞬間、「ああ、やはり14の私は、あのことが悲しかったのだ。それどころか、いまでも悲しいのだ」と思った。

そして、身体を持って身体を自分と信じて生きるということは、これからも大切なひとびとを喪い続けることであり、いつかは私自身も必ず、喪われるということなのだ、それでこんなにも悲しいのだ、と思った。

こんなにも死を信じている。

こんなにも離別を信じて恐れていて、だからYouTube で余命宣告がどうのとサムネイルにあれば、その恐れを直視したくないから、げんなりした想いで敬遠してしまうのだ。

わーんと泣きながら、こんなものが私たちのリアリティだと信じたまま、生きてゆくわけにも、死ぬわけにもいかない、と思った。

そんなことは、きょうだいの誰ともシェアしたくない信念だ。

死はない。
離別はない。
剥奪もあり得ない。
私たちは、肉体ではない。

そう、自分の直接的な体験として、必ず、必ず言い切れるようになりたい。
必ず、必ずそこに行きつかなければならない。

私ひとりでは、たどり着けない。
だから、どうか、どうか助けてください、と祈った。

私がきょうだいとわかち合う想いが、どうか、どうか、これだけになりますように。

私がその目的のためだけに、この肉体を使いますように。

助けてください。

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