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13. インドでのロバート / Robert In India

⭐️ロバート⭐️

バーバラがヒューストンへと発ったあと、僕はインド旅行の計画を立て始めた。

この冒険の資金にするだけのお金は持ち合わせていなかったが、出発の日を決め、旅行の準備に取りかかり、自分が出て行くことを人びとに知らせ始めた。
まもなく僕の友人たちは、「お別れ」パーティーを準備し出した!

どこからどんなふうにお金が現れるものか、さっぱりわからなかったので、僕は解決策について考え始めた。

そのために何か仕事でもしようかとも思ったけれど、そんなに短い期間で稼げるより、ずっと大きな金額が旅には必要に思えた。
借りようか、とも考えたが、どこで借りればいいのかわからなかった。
まもなく僕は、自分がしているのは、ほとんど心配することだけだってことに気づいた。

出発の日が1週間後に迫り、それでもまだ必要な資金がないという段階になって、ついに僕は心配するのを止めることにした。
あらゆる心配を手放すためのアイデアを発見したのだ。それは、
「もし僕がインドに行くことになっているのなら、そのために必要な手段は現れるだろう。
もし行かないことになっているのなら、僕がどんなに頑張ったところで、どうにもならないだろう」
このアイデアによって、僕は確信したーー僕がインドに行くだろうということを、ではなく、起こるべき適切なことが起こるだろう、ということを。

僕は、飛行機のチケットの支払いを除く、すべての旅の準備を続け、自分の送別会を楽しみにし始めた。
もしインド行きがなくなったとしても、どのみち楽しいパーティーにすればいい。

お金が集まり出したーーほとんどは、ギフトとしてだ。
ある友人は100ドルくれて、インドにいるあいだ彼のことを思い出して、絵はがきを送ってくれ、と言った。
別の友人は、「旅のあいだの食費に使ってくれ」と言って小切手をくれた。
たくさんのギフトが、喜んで僕の旅に貢献したい、という気持ちの表れとして寄せられた。
こうしたギフトはすべて、こちらから尋ねることなく与えられたものだ。
僕は、喜んで受けとろうという意欲について、多くを学んだ。

パーティーの日の夜になり、僕への金銭の供給はぐっと増えた。
友人たちが集まると、僕は、旅の資金は充分集まったのかと尋ねられた。
僕がまだだと答えると、尋ねた本人は何枚か札をとり出し、足してくれた。
そのやりとりを聞いていた他の何人かも、同じことをしてくれた。

パーティーは、僕の旅の資金集めのためのゲームのようになり、僕の受けとる意欲はふたたび増した。
ある時点で、友人のひとりが、「必要な金額まで、あと5ドル、というところまで行ったら、僕に知らせてくれよ」と言った。
彼の横にいた人物が言った。「あと100ドルで達成、となったら僕に知らせてよ、そしたら僕が達成させてやるから」
それを機にゲームは白熱し、それから5分後には、僕は旅の必要資金として予想される1500ドルを手にしていた。
ーーインド行きの準備が整った!

2日後、僕は機上の人となっていた。
一緒に行くはずだった2人は旅を延期したので、僕の一人旅となった。
サンフランシスコ空港を発って30時間後、午前4時にニューデリーに到着した。
積み荷からバックパックを回収し、僕はホテル探しに乗り出した。

どのようにして事に取りかかるかのアイデアを得るため、僕は旅行者のひとり、勝手知ったるふうに見えた欧米人に、高くないホテルを見つけるにはどこへ行けばいいかを尋ねた。
彼は、とあるホテルの名前と、そこへ向かうバスの場所を教えてくれた。
すべてが簡単に進むように思えたので、僕はいくらか自信を感じるようになっていた。

バスが僕を連れて行ったのは、とても大きく近代的な建物で、僕がインドで見つけることになると予想していたものより、はるかに豪華に見えた。
この国の経済状況を知っていたから、僕はシングル・ルームを借りるための料金を、非常に低く見積もっていた。
僕が部屋を借りたいと言うと、フロント係は、一晩30ドルになります、と答えた。
僕の受けたショックがおわかりいただけると思う。
僕は、一部屋が5〜6ドル以下だと思っていたのだ。
僕はバスに戻ろうとドアを出たが、バスはすでにいなくなっていた。

けれども、そこにはタクシーがいた。
ドライバーを見つけ、僕は「安い」ホテルに連れて行ってくれ、と頼んだ。
彼は英語がわかっているふりをして、僕たちは出発した。

さて、ドライバーに対してそうしたように、あなたにも強調しておきたいのだが、僕は同じまちがいを犯したくはなかった。
今回、僕は「安い」という言葉を使い、それを強めに発音したのだ。

明らかに、ドライバーは「安い」という単語を知っていたようだ。
ドライブとはじめてのインドの景色を楽しもうと、シートに深く座り直した僕は、まもなくとても深刻な貧困を目の当たりにしていた。
タクシーが道路脇の縁石に寄せて止められ、ドライバーが、道路や歩道に散らばり眠る人びとの体のすぐ向こうの、崩れ落ちそうな掘立て小屋を指さした。
あたりは明るくなってきており、起き出して、マットやラグを丸めている人もちらほらといた。
その光景を見て僕は、さらに不安になってきた。
あとになってわかったことだが、ドライバーが僕を連れて行ったのは、オールド・デリーでもっとも貧しい区域のど真ん中だった。
インドの貧困に関する物語のすべて、ナショナル・ジオグラフィックの写真のすべてが、鮮やかな命を持って、ここに、僕の目の前に在った。
このような光景のただなかにいるという体験に、僕はほとんど準備ができていなかった。
僕は、タクシーから出ず終いだった。

僕はドライバーに、こことは別のもっと「高い」ところを見つけてくれと伝えた。
彼は英語がわかっているふりをして、僕たちは出発した。

ドライバーが、ときどき指さしては、「ここは?」と言って回るあいだ、僕は楽しい気分でタクシーに座り、気持ちを落ち着けていた。
僕はどのホテルも却下して、しばらくのあいだ、ただあちこち移動して回るのに満足していた。
タクシーの窓から外を眺めるうち、僕はとあるホテルの広告看板に気がついた。
それについてドライバーに尋ねてみたが、彼は肩をすくめ、もごもごと何事か呟いて運転を続けた。
彼は他にもいくつかの候補を指し示してくれたが、僕はいまだに、先ほど気づいたホテルのことを考えていた。
なぜかはわからない。そのホテルは他のホテルと特に違うところもなかった。しかし、いまもまだ、根強く心に残ったままなのだ。
そこで僕はドライバーに、さっき僕が尋ねたホテルまで戻ってほしい、と頼んだ。
彼は僕の言うことを理解したようなそぶりを見せ、僕たちは出発したが、彼は僕の滞在先の候補を指さし続けた。
そこに至って僕は、彼が僕のリクエストをちゃんと理解していなかったことに気づき、道順を指示し始めた。
僕は、見覚えのあるものや、あのホテルをふたたび見つけるのに適切と思われる方向を見つけようとした。
驚いたことに、僕はホテルをふたたび見つけ出し、意気込んでフロントデスクへと向かった。
そのときには、僕のお金に関する心配は、ほとんどどうでもいいものになっていた。
一部屋が一晩8ドルで、それは僕が支払いたい金額を上回ってはいたが、いまとなってはそれが僕を引き止めることはなかった。

数分のうちに、僕はこともなく部屋に落ち着いていた。
呼吸法をしたり、くつろいだり、その日の奇跡講座のレッスンに集中したりして、しばらく部屋にとどまった。
インドに来て2時間足らずのあいだに自分が体験したすべてのことが、ほとんど信じられない思いだった。
驚くほど短時間のうちに、僕は回復し、ふたたび人びとのなかに戻ることができるように思えた。
ニューデリーの中心地にある都市公園の端まで、2ブロックを歩き、芝生に座って観察した……1分ごとに、早朝の太陽の下に増えてゆく車や人を。そして、僕の胸のうちに増してゆく歓びと軽やかさを。

ニューデリーの景色と音に浸り、多くの興味深く魅力的な人びとと交流して数時間を楽しく過ごしたあと、上がり続ける気温が、僕を比較的「涼しい」ホテルの部屋へと引き戻した。
僕はベッドに横になり、インドでの最初の朝を振り返っていた。

まもなくして、ベッド脇にあった電話機が鳴り出した。
この世界に、僕がどこにいるか知るひとなどいないのだから、誰かが間違った部屋に電話をかけたのに違いなかった。
僕が受話器をとると、「ロバート?」と相手が言った。
僕はためらったが、ついに答えた。「そうですが?」

「やあ、ジェフリーだよ、ニューヨークの。覚えてるかい? 去年会っただろ」

僕は思わず叫んだ。「いったいどうやって僕がここにいるのを見つけた!?」
彼の答えたことには、「僕より何日かあとに君がニューデリーに来るって聞いたから、君のためにここの部屋を予約しておいたんだ。僕は、君の部屋から少し廊下を行った部屋にいるよ」

「もしあなたが、自分の選んだこの道で、誰があなたの傍らを歩むかを知っていたなら、恐れは不可能となるだろう」 
奇跡講座 T-18.III.3.2

僕は満足したーーこれ以上何も必要なかった。
もうこれで家に帰ってもいいと思えた。
僕のエコノミー・プランのフライト・チケットに、インドに1週間以上滞在しなければならない、と明記された条件がなかったなら、僕は真剣に帰国を検討したかもしれない。
その条件のことが頭にあったので、事前に計画した通り、ヒマラヤへと北に向かうことにした。

僕は、自分の持ち物をバックパックひとつに入れて持ち歩いていた。
そこには必需品が詰め込まれていたが、僕にとっては奇跡講座のセットも必需品のうちだった。
その3冊は、僕の荷の重さの大きなパーセンテージを占めていたが、僕は旅のあいだずっとそれを持ち運んだ。
レッスンを続けていたので、奇跡講座の本と取り組むのは僕の毎日の日課だった。
2ヶ月に渡ったこの旅において、場所や生活のスタイルは幾度となく急激に変わったが、僕はいつでも、奇跡講座の学習を取り入れるのは充分に可能だということを発見した。
僕が本を読んでいると、そんなに大きな本を抱えてバックパックで旅するなんてと、誰かが驚きの声をあげることが、一度ならずあった。
他にも2冊あるのを僕が見せると、彼らの驚きはさらに深まるのだった。

インド旅行は、自分の外側で起こる出来事の如何に関わらず、本質的には内なる旅だった。
何度も繰り返し出会うことになった人びともまた、非常に内省的だった。
僕が奇跡講座の学習を通して得ていた洞察やものの見方は、旅で出会った仲間とわかち合うためのタイムリーなギフトであることがわかったし、彼らもまた、僕がそうしたアイデアへの理解を深めるのを、何度も助けてくれた。
これはいまも、僕の奇跡講座の実践の一側面であり続けている。

ひょっとすると、インドにおける旅と冒険のあいだの僕のもっとも大きな学びは、フレキシブルでいる、ということかもしれない。

驚くようなことや、予期せぬ出来事は、茶飯事となった。
物理的な環境、人間関係、交通機関、食べもの、宗教と慣習。また、そうしたものそれぞれについてのインド的なものの見方、僕のジャッジメント、恐れ、思い込み。

毎日、奇跡講座のあたらしいレッスンがもたらされ、ほんとうに多くの奇跡講座学習者が同じことを言うのを聞いてきたが、その日その日に起こる出来事が、当日のレッスンを当てはめて実践するのに、まさにぴったりの機会を提供してくれた。

ニューデリー到着前後の日々に行なったレッスンには、以下のようなものがあった。

「私が見ているこの世界には、私が望むものは何もない」(L128)

「この世界を超えたところに、私の望む世界がある」(L129)

「真理に到達しようとして、それに失敗する者はいない」(L131)

「これまで『世界』だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ」(L132)

また、ヒマラヤ山麓のアシュラムを二度に渡り訪れたときに行なっていたレッスンには、以下のようなものがあった。

「天国は私が下すべき決断である」(L138)

「私は自分自身に贖罪を受け入れる」(L139)

「すべてのものごとは、神を代弁する声のこだまである」(L151)

「私は神の司牧者の一人である」(L154)

列車の旅のあいだのレッスン(ものすごく混んでいて、騒がしかった)。

「私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である」(L160)

この列車の旅において、肌が発疹と水脹れに覆われたインド人が、僕の隣に座った。
僕の腕が「うっかり」彼の腕に触れ、彼の皮膚病がうつってしまうのではないかという恐れの思考が、僕の頭をよぎった。
それから数日のうちに、ちょうど彼の腕にあったようなぶつぶつとした発疹が僕の腕に出たとき、僕がどんな気持ちになったか、ご想像いただけるのではないだろうか。

僕のレッスンは、「死は存在しない。神の子は自由である」(L163)だった。

その2日後、僕の心が腕の発疹のことでいっぱいだったときの僕のレッスンは、「私の心が、神の想念を拒否しませんように」(L165)。
このアイデアについて黙想していると、僕は突然、恐れから解放され、深い信頼の感覚を感じた。
数分のうちに、発疹は消えてしまった!

帰りのフライト前の数日、僕が、アメリカに戻ってからどうしたらいいのか、もっとも途方に暮れていたときのレッスンは、以下のようなものだった。

「神の名は、私が受け継いだ賜物である」(L184)

「私は神の平安を望む」(L185)

僕は、ほとんど無一文でインドから帰国した。
ヒューストンに赴き、バーバラと再会すること以外に、これから何をしていくことになるかまったくわからなかった。
ただ次のステップが何なのかということだけが、僕の知りたいことだった。
ヒューストンに着くと、僕とバーバラは何時間も話し続けた。
そのときのトピックのひとつは、信頼についてだった。
未来について知ろうとすることなく生きる、という意欲を持つには、勇気が必要だ。
奇跡講座は、「信頼が、今、すべての問題を解決する」(訳注:T-26.VIII.2:3)と言っている。
バーバラは、教師のためのマニュアルの「信頼」の節を、毎朝読み続けていた。
そのことは、確かに僕の興味を引いた。
僕はとりたてて強い信頼を感じていたわけでもなかったが、ただ確かに僕は「次の一歩」を踏み出し続けてきたし、そしてまさしくそれこそ、僕がこれから続けてゆくことでもあった。
いまこの瞬間に、自分の片足をどこに下ろすか、ということ以外、僕は何も知る必要がないのだ。
ーーそして僕は、足を踏み出す時機が訪れたときにはいつでも、自分にはその一歩をどこに下ろすべきかがわかっている、ということに気づいた。

僕の心はこれまで、未来を予測し、その予測から、自分が何をすべきかの答えを得ようとし続けてきた。
僕が気づいたのは、聖霊が何をすべきかを教えてくれるまで、僕は正しい答えを探し続けるということ、聖霊に正しい答えを教えてもらってはじめて、それを行動に移せるということだ。


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