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16. セックスについての追記 / More About Sex

約8か月の不淫の結婚、トータルでは11ヶ月の不淫生活ののち、私は瞑想中に、私がいまだに自分の生活についてのルールを持っていること、しかし、持つべきルールはただひとつ、聖霊のガイダンスを求め、そして毎瞬、そのガイダンスを受けとるためにオープンでいることだけだということを「告げられた」。
私は、自分が手放すべきルールを示してほしい、と頼んだけれど、そのうちのひとつは、間違いなく不淫だった。
何が起きるのかしら、と思いつつ、私は聖霊に、自分の「性生活」を明け渡した。
その日、後になってロバートに、私が聞いたことの内容と、聖霊に委ねたことを話したところ、彼は、自分も同じことをするよう導かれていると感じる、と言った。

私たちはふたりとも、不淫の生活からたくさんのことを学んだ。
私たちは、「それがどんな結果に繋がるか」を心配することなしに、他者に対しての愛を惜しみなく表現できる自分自身に気がついた。
ふたりでともに祈り、自分たちのセクシュアリティを聖霊の望むとおりに使ってもらえるようにと捧げ、それからリラックスして、すべてはうまく行っていると信頼した。
セクシュアルな表現へと向けられ得るような感覚(ただしそうした衝動は、数えきれないほど様々なかたちで使われることが可能だ)に私たちが気づくまでには、たぶん、一週間ほどの時間が過ぎた。
ふたりで聖霊に、このエネルギーをどう扱ったらよいか、と尋ねると、私たちが受けとった答えは、「ともにいなさい」というものだった。

私たちは、まるで子どもになったように感じて、起きていることについて無邪気で、どんな先入観も持たずにいた。
一瞬一瞬が真新しく、完全で、満ち足りていて、それが何であれ次の展開へと、自然に流れるようにして進むのだった。
オーガズムは、求められもしなければ、拒まれることもなかった。
それは私たちにとって、これまでのセクシュアルな体験とはまったく異なる体験だった。

私たちはいまではイエスに、私たちを導き、私たちとともに在り、そうして私たちのなかで、また私たちを通して生きてくださいと、苦もなく求められるようになった。
セックスは人生の一側面であり、私たちはキリストに、セクシュアルな表現においても導いてほしいし、性行為のあいだも私たちとともに在ってほしいのだ。
私たちは、それが何であれ、キリストのガイダンスのもとで展開してゆくものにオープンでいられるよう訓練している。

性的な衝動についての、興味深い観察結果がある。
それは、セックスをすれば、衝動はなくなり、……セックスをしないでいれば、衝動はやはりなくなる、ということ!

私たちはこれまでのところ、子どもを持つように導かれているとは感じていない。 
けれども聖霊に、もしあなたがそれをお望みならば、もちろん私たちはそうしたいです、とは伝えてある。
聖霊のガイダンスのもとに置かれるなら、誕生日も家庭生活も、すべてが一変し得ることを、私たちは知っている。
何らかの「通知」が来るまでは、私は避妊具としてペッサリーを使用している。

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