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【創作部】0.短歌と物語*観覧車回れよ回れ思い出は君には一日我には一生

「思い出」というものは残酷であればあるほど、鮮烈に、強烈に、人の心に残るものらしい。

 結婚した今でも忘れられないのはミヤタ先輩だ。社会人になって10年目で最初に転職した会社で出会った元婚約者。旦那には後ろめたく思うこともあるけれど、やっぱりミヤタ先輩は私にとっては特別なのだ。ミヤタ先輩の浮気相手が妊娠しなければ、間違いなく結婚していた。だって、ミヤタ先輩の浮気騒動は私たちが婚約して、結婚式(と入籍)まであと半年という頃のことだったのだから。ミヤタ先輩の裏切り行為を恨めしく憎く思えば思うほど、それは好きの裏返しで、求めても一緒にいられないという空虚感は狂おしいほどに恋しいという感情をマグマのように湧かせ続けている。タカシと結婚した今でも折に触れて思い出すのはミヤタ先輩とのキラキラした日々で、ドロドロとした日々だ。たしかにタカシとの結婚生活は穏やかで、端から見れば「幸せ」というものだろう。タカシは優しい。ミヤタ先輩と破談になって、自暴自棄になっていた私を癒やしてくれたのもタカシだ。結婚生活3年の間に波風が立ったことなど1度もない。いつだって穏やかで、温かく、私の泣き言やイライラもすべて受け止めてくれる。仏のような人とはタカシのような人のことをいうのだろうと思う。タカシとの生活はボサノバのように心地よいゆらぎの中で流れている。ただ、それはちょっとばかり刺激に欠けるということでもある。だから、平凡で穏やかな日常の中で思い出す過去のあれこれはいくばくかの苦しさを伴いながらも、私に「生きている」ことを実感させる。

 ところで、私にはもう1人忘れられない彼がいる。最初に付き合ったヨシくんは、今まで付き合った人の中で、ものすごく好きだったというわけではない。けれど、ヨシくんとのことは何かと思い出す。それはヨシくんが最初の彼氏で、付き合ってから恋人同士の様々な経験はヨシくんが初めてだったということだけではない。

 私たちは大学のマンドリンサークルで出会った。私たちはサークルの練習日の他にも個人練習で毎日のようにサークル棟に入り浸っていたこともあって、自然と距離が縮まり、ヨシくんとはほどなくして付き合うことになった。ヨシくんは学年は同級生だったけど、1つ上だったし、親に譲って貰ったとかいって1年生にして車を持っていたりしたので、周りの学生よりもずっと大人びて見えた。付き合ってからもヨシくんがいろいろとリードしてくれるので、何せ付き合うのが初めてだった私はすっかり甘えてしまっていた。ヨシくんは高校時代に彼女がいたらしく、いわゆるデートスポットだとかカップルで行くと盛り上がるイベントだとかをよく知っていて、ヨシくんはことあるごとにいろいろと提案してくれたし、私はそれを受け入れるばかりだった。

 最初にヨシくんの車で遠出したのは夜の海だった。7月も上旬の頃、暑さと湿気ですごしにくい日中も、夜は少しだけ気温が下がり、波の音が肌をなでるように響いてまとわりつく空気を払ってくれる。ヨシくんの手の湿り気を感じながら、波打ち際を歩いた。何を話したかはほとんど覚えていないのだけど、観覧車のてっぺんは海の底と同じくらい静かでこの世界の果てに来たような感覚になるのが好きだとヨシくんが言ったことだけはずっと忘れられずにいる。

 ヨシくんとの付き合いは大学4年の5月まで続いたので、約3年くらい付き合ったことになる。その間、小さな喧嘩をしながらも普通の恋人関係が続いた。空きコマには図書館で一緒にレポートを書いたり、授業後のサークルには2人で行ったり、いたって普通の大学生活を送った。休日は街のカフェに行ったり、買い物に行ったりすることもあれば、お互いの家でゴロゴロして過ごすこともあったし、夏休みや春休みにはちょっとした旅行にも出かけた。誕生日はお互いにお祝いし合って、クリスマスも、バレンタインデーも3回ずつ一緒に過ごした。あ、大学2年のクリスマスはヨシくんが盲腸で入院してたから、クリスマスは2回だ。そういうイベントを一緒に過ごすと、思い出の品も増える。ネックレスだとか、リングだとか。でも、思い出の品といっても所詮はモノだ。別れとともにそれらはどこかへいってしまった。いや、どこかへいってしまったというのは正しくない。自ら手放したのだ。

 ヨシくんとの付き合いにはこれといって不満もなかったけれど、大学4年になって、私の就職活動が本格化すると2人の感覚がすこしずつずれ始めた。理学部だったヨシくんは大学院への進学を目指していたので就職活動はしておらず、一方の私は就職活動に必死だった。バブルがはじけて就職氷河期と言われていた時代のことだ。私もご多分に漏れず何十社受けても内定が取れずにいた。正直、焦っていた。毎日毎日、企業研究をしては、就職試験を受け、面接の連絡に一喜一憂し、神経をすり減らした。そんな日々の中で、のほほんと、お気楽に生きるヨシくんの存在が疎ましくなってきたのだ。今、考えれば、ヨシくんは就活で疲れていた私を気遣ってくれていたのだと分かるのだけど、労りのことばをかけられるたびに、何なんだ上から目線の物言いは!とイライラしていた。そんな情緒不安定の中で「就活上手くいかなかったら一緒に大学院行こうよ。そしたら、同棲でもしてさ。」と言われたとき、イライラが最高潮に達してしまった。第一希望だったテレビ局から不採用通知の連絡があった日だったということもある。私は感情のままに怒りをぶつけた。

 なんで、就活がうまく行かないって決めつけるの?彼氏だったらさ、全力で応援してくれて、大丈夫っていってくれったっていいじゃない。不採用の連絡が来る度に、私がどんだけ自信をなくしていっているのか、ヨシくんには分かんないよね。まるで社会から私なんていらないって言われているかのように感じるんだよ。面接で詰まってしまったのがダメだったのかなとか、誰でも言えそうなことしか言えなかったからかなとか、そんなこと思うたびに落ち込むんだよ。そういう人の気持ち、想像できる?あとさ、肩の力を抜けよとか、甘い物でも食べて切り替えていこうとか、エラそうに言うのやめてくれない?てゆうか、同棲って何?ヨシくんは家政婦が欲しいの?ヨシくんが私にごはん作ってくれたことって何回あったっけ?

 ドードー!ストップ!落ち着け私!と右斜め上から冷静な私がなだめるも、吹き出したことばはとどまることを知らず、だんだんとヨシくんの顔をくもらせていく。そして、しばらく沈黙が続いたのち、ヨシくんは「ごめん」と小さくつぶやいて、部屋を出て行った。ヨシくんは大人だった。たぶん、あのときの私には何を言ってもダメだと分かっていたのだろう。その日を境に2人の関係は終わった。俗に言うフェードアウトってやつだ。ヨシくんから連絡はなかったし、私も意地を張ってしまった。

 就活は惨憺たるもので、結局、地元の中古車販売会社の事務員として職を得たものの、気分は晴れなかった。希望した職種ではなかったし、時代の重苦しい空気がなおいっそう暗い気持ちにさせた。ヨシくんの誘いにのって大学院に何とはなしに進学した方がよかったのではないかと思わなくもなかった。しかし、あんな責め方をした後に、就活がうまくいかなかったからといって大学院に行くという選択をするのもばつが悪い(とはいえ、家にそんな余裕などなかったのでどのみち現実的な話ではなかったのだけど)。ただ、その頃のことを振り返って、今、四十路手前になって思うことは、二十歳そこそこで焦らなくても人生は何となく続いていくし、いいことも悪いこともなんとなくそれなりに起こるということだ。そして、就活がうまく行かなかったイライラでヨシくんとの関係が終わったことは、全く以て幼稚なことだし、結局、ヨシくんとの付き合いも独りよがりの恋愛ごっこにすぎなかったのだろう。

 ヨシくんとの関係が元に戻ることもなく、淡々と過ごしていた冬のある日、街でばったりとヨシくんに出会った。私がキレたあの日以来、遠目にヨシくんを見ることはあっても、お互いを認める距離で会うことはなかったし、実のところ会うのを避けていた。3年も付き合っていれば、だいたいの行動範囲や生活リズムが分かるもので、ヨシくんに会わないようにすることはそんなに難しいことではなかった。

 半年ぶりに会うヨシくんは少しやつれている感じがした。私と別れて元気そうにしていると癪にさわったかもしれないけれど、やつれたヨシくんの姿は何となく私をほっとさせた。

「こんなところでどうしたの?」
「あー、マンドリンの弦を買いにね。」
「そっか。ヨシくん、サークル引退しても、マンドリン弾きに行ってたね。」
「大学院受かったからさ、マンドリンも弾き続けてみようかなって。たけちゃんとゆうやと同じ大学院組で来年の定演にゲスト出演させてもらおうっても言っててさ。」
「あ、大学院受かったんだね。おめでと。じゃあ、あと2年は学生なんだ。」
「ん。そっちは?」
「横川中古車販売に決まった。内定出たのその1つ。」
「そっか。就職難のこの時代によく頑張った!おめでとう。」
そういって、ふいに頭をぽんと撫でられたので、びっくりしたと同時にふわーっと涙が目にたまった。慌てて下を向いたけど、遅かった。ヨシくんはさらにポンポンと頭を撫でた。
「ん。就活うまくいくって信じてたよ。頑張ってたもんな。ごめんな。あのとき無神経なこと言って…。」
ことばが出なかったから、私は精一杯に首を振った。冷たい冬の空気が頬を流れる涙に当たって余計に冷たい。けれど、あんな感情まかせに怒りをぶつけたヨシくんの優しさが温かく、意固地になっていた気持ちを溶かしていく。
「私こそ…ごめんな…さい。ヨシく…んは…いつも…私を応援してく…れてたのに。気遣ってく…れてたのに。あんなふうにせめ…てしま…っ…ふぇ…」
ヨシくんはあのときと同じように黙ったままだった。でも、あのときとは違って、泣き止むまで私の側にいてくれた。

 冬の陽は落ちるのが早い。そして、この季節おなじみの電飾がついたツリーがちらほらと街中に明かりを点す。まだ今ほどイルミネーションが街を彩るような時代ではなかった。それでも、まばらに置かれた店先の電飾付きのツリーは暗くなった街をほんのりと明るくする。かつての恋人たちの心も。なんとはなしに歩幅を合わせて歩くヨシくん。二言三言ことばを交わしては沈黙しながら歩くのは気まずいなぁと思うけれど、また一緒に歩いていることがちょっと嬉しくもある。街の商店街から駅へ向かって歩いていると、途中のデパートの屋上に観覧車がある。観覧車も電飾で彩られ、高いところにあるせいでこの街で一番キラキラとして見え、その存在感を闇にこれでもかと浮き上がらせる。

「観覧車かぁ。そういえば、ヨシくんと乗ったことなかったね。」
「そうだっけか。そうかもね。一緒に乗ったことなかったね。」
「そうだよ。3年も付き合って、いろんなところに行ったのにね。」
「………乗ってみる?」
ためらいがちにヨシくんが聞いた。私もためらいがちにうなづいた。

 デパートの屋上に上がり、観覧車のチケットを買った。私たちの他に観覧車に乗る客はいなかった。そのデパートの観覧車はずいぶん古い観覧車で、その割には料金が割高なこともあるので、正直、あまりはやってはいないのだ。

「貸し切りだー」

そう言いながらヨシくんが観覧車に乗り込んだ。慌てて私も乗り込む。

「ごゆっくりー」

チケット売り場のお姉さんがけだるそうに言いながら扉を閉めた。

 観覧車のてっぺんは海の底と同じくらい静かでこの世界の果てに来たような感覚になる

 いつかの海で聞いたヨシくんのことばが思い出された。

「この街もけっこう明るいんだね。」
「明るいでしょー。駅前のパチンコ店なんてバカみたいに明るいし。」
「そうだね。あ、見て、KRLのテレビ局の鉄塔!きれー。」
「ああいう、高いところの電飾付けるのってだれがしてるのかな。テレビ局の職員かな?」
「いやー、んなわけないでしょ。どこか業者がやってるんじゃない?テレビ局に入社して鉄塔の電飾つけてくださいって上司から言われてもねー…。」
「ははははは。そりゃそうだ。」

 そんなたわいのない話をしつつ、でも、てっぺんが近づくにつれ、2人とも口数が少なくなっていた。

 ふーっと上を見上げる。上半分が透明張りのゴンドラの外には暗闇が広がる。ところどころに星がちりばめられている。さっきまでの雑踏の中にいたのに、人の姿も街の建物も街頭の木も何もない。ただただ目の前に広がる闇と光。

 世界の果てだ

 何もない世界の果てだ。

 ゆっくりと顔を垂直に戻すと、ヨシくんと目が合った。そして私たちは静かにくちびるを重ねた。長く長く時を止めるように。

 その夜以来、私はまたヨシくんを避けて過ごした。2、3度携帯電話にヨシくんから連絡があったけど、かけ直すことはしなかった。卒業まであと三ヶ月だった。ヨシくんとヨリを戻してもまたすぐに離れ離れになる。会ってしまえば、ヨシくんの優しさに甘えてしまいそうだった。ヨシくんを愛しいと想うよりは、ヨシくんといることでもたらされる安心感を私はずっと感じていたのだ。だから、ヨシくんと遠距離になってやっていく自信はなかった。それならば、ヨシくんとはもう会わずに、このまままたフェードアウトしようと決めたのだ。

 そう、世界の果てに行って気がついたから。ヨシくんを愛していたわけではないことに。

 時は驚くほどあっという間に過ぎた、と言い古された表現以外に言いようがないくらいに15年の月日が瞬く間に流れた。ミヤタ先輩との破談後すぐに2度目の転職をして、地元のテレビ局で製作アシスタントをしている。今のところ、鉄塔の電飾付けはやらずに済んでいる。

 卒業して就職した年のことだ。あの観覧車に乗った日、定演でヨシくんがたけちゃんとゆうやとゲスト出演したいと言っていたから、もしかしたら出演するかもと思い、ふと行ってみたくなった。インターネットがまだ普及し始めたころで、彼らが出演するかたしかな情報は得ていなかったけど、ヨシくんはマンドリンには熱心だったし、たとえ出演していなかったとしても、久しぶりに会って話くらいできればと思っていた。マンドリン部の定演は11月の第3土曜日と固定されていたし、会場も街の小さなホールでするのだろうし、ちょっと驚かせようという気持ちもあってだれにも連絡せずに定演会場に向かった。定演会場の入り口で部員たちが受付をしているのを懐かしく見て、定演のプログラムを受け取った。かつての後輩たちもすっかり先輩らしく振る舞う姿が頼もしくまた眩しかった。私もあんなに生き生きとしてただろうか…。そんなことを考えながら、会場に入り、見知った顔を探した。1年上の愛先輩と直美先輩の姿が見えたので軽く手をふった。さらに同じ1年上の悟先輩も見つけた。たしか、悟先輩はヨシくんと同じ理学部で大学院に進学したはず。あ、そうだ、ナミちゃんは来てないかな…。唯一の同期女子のナミちゃんの顔を探すも見つからない。ナミちゃんは新聞社勤務だし忙しいか。そうこうしているうちに開演の時間も迫りつつあったので、後ろよりの席についた。プログラムの初めには部長や顧問の挨拶があり、続いて引退する3年生たちのことばがしたためられていた。それぞれに思いのこもった文章である。そうしてプログラムをめくっている途中で、会場の照明が落ち、開演のブザーとともに幕が上がった。最初は1年生の合奏だ。今年はけっこう入部したのね。新入部員が10人を超える年はそうそうない。私たちは5人だった。1年生の合奏を聴きながら、初めての定演はものすごく緊張して3回もミスしてしまったことを思い出していた。次の演奏者が出たときに、あれ?と思った。舞台にはたけちゃんとゆうやがいたのだ。ヨシくんも?でも椅子は2脚。プログラムを見ると、たけちゃんとゆうやの名前のみ。すると、たけちゃんがマイクを手に静かに口を開く。

「今日の演奏を亡き藤田義昭くんに捧げます。」

 え、どういうこと?「ナキフジタヨシアキクン」って何?頭が混乱したままでいると、「君をのせて」が流れた。ヨシくんが好きだった曲だ。「天空の城ラピュタ」はビデオで一緒に何度も何度も見た。たけちゃんとゆうやの奏でる「君をのせて」の寂しげな音色は全く耳に入ってこなかった。代わりに抑揚のない声が頭の中にリフレインし続けた。

 ヨシクンハモウコノセカイニイナイノ?


 ヨシくんは、運転中に車の影から出てきた子どもを避けようとしてハンドルを切ったら、反対車線に入り込み、タイミング悪く来たトラックにぶつかり、その衝撃に似合わないくらいにあっけなく逝ってしまった。ヨシくんが亡くなったことをたけちゃんは私に知らせようとしてくれたのだけど、私は就職と同時に、携帯番号とアドレスを変えていたので連絡がつかなかったのだ。ヨシくんはもとより、サークル仲間だった子たちにも何となく変更のお知らせを出来ずにいた。だから、今日の定演で会ったときにでも新しい連絡先を伝えられればいいなとも思っていた。

 定演が終わると、足早にデパートに向かった。ヨシくんと乗った観覧車のあるあのデパートに。観覧車は変わらずに回っていた。ヨシくんはもうこの世界にいないのに。

 「思い出」というものは残酷であればあるほど、静かに、やわらかに、人の心に蘇るものらしい。

 ヨシくんが生きていれば、ヨシくんと観覧車に乗ったことなど思い出さなかったかもしれない。けれど、ヨシくんはもうこの世界にいない。そして、私は12月になるたびに思い出す。貸し切りの観覧車の軋む音を。鉄塔に電飾を付けるのは誰なのかと話し合ったことを。地上にあふれる明かりの暖かさを。気が遠くなるほどの闇の中にちりばめられた小さな光の粒たちに包まれたことを。「世界の果て」に行ったことを。時を止めるほど長く長くキスしたことを。

 ヨシくんを愛していたことを。

 これからも一生思い出す。


 観覧車回れよ回れ思い出は君には一日我には一生

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付記

本作品は下記の経緯によって作成したものです。

 平成31(2018)年度の学部の授業「中等国語科内容開発(国語学)」の演習テーマとして「国語教育における創作活動のあり方を考える」ということの一部として受講生に物語を書くということを第一の課題としました。具体的には、高等学校の教科書教材にあった「短歌と物語」に取り組む形で、栗木京子さん作の「観覧車回れよ回れ思い出は君には一日我には一生」の短歌を題材にすることを受講生たちが決定し、各自が物語を書くということになりました。その課題に授業担当教員である私も取り組んでみた次第です。

 ところで、中等段階の国語教育においてこのような物語を書くという創作活動は必ずしも積極的になされているわけではないでしょう。そのような実態を鑑みて、創作活動の意義や目的や教育効果の可能性を考えることを本演習のテーマとして設定しました。そうしたところ、国語教育における創作活動の可能性は下記の点において、有効に機能するのではないかということを演習時のディスカッションをとおして考えました。

 ①語彙力、表現力といった言語能力の育成に関わる。
 ②物語の構成を考えることは思考力の育成に関わる。
 ③創造することの自由と楽しさと達成感を味わえる。

①、②はとりわけ国語科が育成すべき力の主たるもので、創作活動のみならず、国語教育全般において関係することです。一方、③については、創作活動ならではのことかと考えられます。そして、創造する自由や楽しさや達成感は、自己肯定感の醸成にも大きく影響すると考えられます。日本の子ども達の自己肯定感の低さが諸外国に比べても目立つということが時々話題になりますが、創作活動が自己肯定感を高めることができる学習活動として有効に機能する可能性を考えてみたいものです。

 人間の諸活動において、「創造」は人間にとっての生きるエネルギー、活力の源であると思います。ことばを紡いで物語を作るということは、「無」の状態からこの世界に「物語」というものをあらしめる大いなる営みだと言えるでしょう。「何かを創り出せる」ということは人間にとって大きな喜びであり、まさにこの世界を創造していることに他ならないのです。

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