髙橋史郎さんの『森田成也氏の「トランス問題」に関する核心を衝いた論考』という記事を読んで

これどこまでが原文(森田成也さんの言葉)で、どこからが著者(髙橋史郎さん)の感想なり意見なりなのか分からなかったです。それから要約(引用?転載?)元のURLなどの出典が明記されていなかったのにも戸惑いました。

元記事はnoteの髙橋史郎さんの2023年7月6日の記事
森田成也氏の「トランス問題」に関する核心を衝いた論考|髙橋史朗 (note.com))』
https://note.com/takahashi_shiro1/n/n8b143a2e2b62 )を読んで
以下『』内の言葉は上記の記事よりの引用です。


『ほぼすべての野党と主要な国際機関や人権団体がTG派の教義(われわれはこれをトランスジェンダリズムとかトランス・イデオロギーと呼んでいる)を受け入れてしまっている』、とは言えないように私は感じています。

『セックスとジェンダーとを厳密に区分』した上で『「性別は自己決定できる」という認識』を拒否した上で『トランスジェンダーと性同一性障害とは異なる』、という論理がなぜ成立するのかもう少し詳しく説明していただきたい。著者の論理に従うのであれば『性同一性障害特例法によって生物学的性別と異なる性別に変えること』がどうして『特例』としてであったとしても認めてしまえるのか。この著者に対しても著者のいう『トランスジェンダリズム』に対しても同様に、「セックスとジェンダー」と「性別」という言葉を意図的に使い分けている悪意があるように私には感じられます。

また『脳の構造やその他の生物学的特性に、トランスとそれ以外との間に違いは見出されなかった。』という断定的な表現は、「(前略)現時点においては決定的と言える違いが見出されていない」と表現するほうが科学的ではないでしょうか。

『主観的な「気持ち」よりも、客観的事実の方が重要である』というのには同意、ただ、だからこそ「客観的事実として現にそのような状態にあるもの」としての「トランスジェンダー」への社会的対応は「自己責任」で済ませられない問題なのではないかと思います。端的に言って「『トランスジェンダリズム』が解決すれば、トランスの問題が解決する」とは私にはとても思えないからです。例えば『男性的ジェンダー規範を好む女性』に対して女子トイレを使ってくださいと言う事は本当に問題解決の一助になると安易に言えるのでしょうか。また、入国する非邦人に対しても国内法においてどのような性別の取扱いをするのかについて検討されるべきだと考えます。

また『政教分離』を掲げるのであれば同時に「信教の自由」も掲げなければならなくなるのではないでしょうか。であるならばなおさら著者が教義であると批判している『心の性』という表現を使わずに著者が言う『女性的ジェンダー規範を愛好する男性と、男性的ジェンダー規範を好む女性が存在するだけであり、そうした多様性を承認する事こそが本来の意味での「多様性」なのである。』が達成される方法をご教授願いたい。「教育の中立性を守る」とはそういうことではないでしょうか。

また、あえて言うならば「トランスジェンダリズム」のもともとの意味は「手術に同意が必要とされたり無理やり結婚させられたりしてはならないのと同様に、人々は自身の性別について他者から強制されてはならない(ここでいう性別にはセックスとジェンダーの両方が含まれると私は解釈しています)」という意味ではなかったでしょうか。著者が個人的に定義している『トランスジェンダリズム』、およびこれを主張あるいは批判している人々がしていることは、「トランスジェンダリズム」の拡大解釈でありこれもまさに『用語を簒奪』である様に私には感じられました。

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