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虚構が好きな女たち

靴を履いて出かけようとすると、玄関の花瓶に生けた花の元気が無くなっていることに気づいた。
私が気づくのと同時に、
「お水、替えておくね」
と声がした。
まるで私が作った答案用紙に正解を書き込むように、亜咲美は言った。
「ありがとう、いってきます」
そう言って私は亜咲美の解答に丸をつけて家を出た。

いつの頃からか亜咲美は、物事によく気づく子になっていた。髪を3センチ切ったとき、夫は道端にある電柱を見るような目で、私の前を素通りした。しかし亜咲美は私の髪の毛を触りながら、もう少し切ればよかったのにと言った。更に細かいことで言えば煮物に砂糖を入れたかみりんを入れたか。なので話は戻るが、パスタの味に気づかないのはまず有り得ない。良く思い返してみると、フルートを習い始めた当初は食べてくれていた。それがある日を境に様子が変わっていった。しかし具体的に彼女の転換期がいつだったのかは私も詳しく把握していない。把握していないというより私はその時、私の気持ちの移り変わりにばかり気を取られ、亜咲美の行動をよく見ていなかったという方がしっくりくる。見過ごしてしまった彼女の心境にはどんな変化があったのだろうか。

そんなことを巡らせているうちに、近所のショッピングモールの2階にある、音楽教室に着いた。楽器店の横に併設されており、先に終わったピアノ教室の生徒たちで賑わう。ピアノ教室の多くは小学生で、親の迎えを待つ間、斜め向かいにあるフードコートに引き寄せられるように彼らは流れていく。
まだレッスンが始まるまで時間があったため、フードコート隣の本屋に立ち寄り時間を潰す。表に並んでいる売れ筋小説の1ページ目をめくる。
高校生を題材に書かれた文章のようで、いつの間にか自分の学生時代に思いを馳せる。

私は学生時代、吹奏楽部でクラリネットを演奏していた。自ら希望してクラリネットを選んだ訳ではなく、人数合わせで先生にやれと言われた。当初したいと思っていたフルートは希望者の倍率が高く、私は当選から漏れてしまった。クラリネットはそれなりに頑張っていたし、先生からもお墨付きをもらっていたけれど、コンクールに出場すると決まっていつも銀賞。金賞を取ったことは一度もない。もちろんその時は部活での練習のほかに朝練や居残り練習をしていた。しかし、このくらいでいいやという驕りがなかったか、イエスかノーで答えよと言われると、イエスの札を即上げる自信も、自分を卑下してノーの札を上げることもどちらもできない。今思えばその程度だ。
それはそれで学生時代の記憶として、頭の片隅にしまっておいた。

記憶にかぶっていたほこりを払うことになったきっかけは、亜咲美とこのショッピングモールに来たことだった。亜咲美とたまたまここの音楽教室を通りかかった際に、同じクラスの柚希君という子が通っているということを教えてくれた。
その時、体験レッスンというチラシが目に入り、学生時代やりたかったフルートにチャレンジしてみたいという思いが込み上げた。それからすぐ体験レッスンの予約を取った。
私はグループレッスンとばかり思っていたが、あいにくフルートの希望者が誰もおらず私ひとりだけだった。そこで出会ったのが秋川先生だった。
秋川先生は、音の鳴らし方や忘れかけていた譜面の読み方、リズムの取り方を丁寧に教えてくれた。初めてのわりにセンスがいいといわれた。そこで私は、
「学生時代、吹奏楽部でクラリネットを演奏していたんです」
と言った。すると秋川先生はクスリと笑って、
「僕は学生時代、クラリネットがやりたかったんです。でもフルートの人数が足りなかったせいでフルートにまわされた」
と言った。秋川先生は男子校に通っていたらしく、フルートをやりたがる人が全然いなかったらしい。そこで仕方なく始めたのがフルートだった。ただ、やり始めたらフルートの魅力に惹かれ、一度はプロを夢見たこともあったらしい。しかし腱鞘炎に悩まされ講師になることを余儀なくされた。
なんとなく学生時代の私と秋川先生に共通点があることに縁を感じた。
それから何回かレッスンを重ね、教室に本入会することになった。
すると秋川先生に、数か月後に行われる音楽教室主催の演奏会に出ましょうと言われた。
これは順位がつくものではないが、練習した成果を発表できる場として音楽教室が毎年開催しているものだという。確かに目標があればやみくもに続けるよりやる気が出る。
そう思い、クラスの学級委員にでも立候補でもするように私はやりますと言った。
秋川先生は私と一緒に演奏をしてくれることになった。
そして課題を出すから次回まで調べておくように言われ、1枚のメモを渡された。
「affettuoso Akikawa」
メモにはそう書かれていた。
私はその日のレッスンが終わるとすぐこの言葉の意味を調べた。
意味を知って、とても来週まで待てないと思った。
なのでこの言葉の答え合わせをしたい、とすぐ先生にLINEを送った。
すると先生から、
「では明日11時会うことは出来ますか」
と返信が来た。
私は、はいと返事をした。

次の日待ち合わせ場所のカフェへ行くと、ネイビーのカーディガンにシャツ、ジーンズといった、教室では見ることの出来ないようなラフな先生の姿があった。
先生は私の姿を見つけると、開いていた手帳を閉じた。来月から中学生の生徒が増えるらしく、スケジュール調整をしていたとの事。
それから、今日はこの後時間はありますかと問われた。亜咲美が学校から帰って来るまでは大丈夫だったので、ありますと答えた。
すると先生は、ここから1時間くらいの海沿いに、知り合いがやっているイタリアンの店があるから行きませんかと言ってきた。
私は行きたいですと答えた。
先生の車に乗り込むと、さっきまでぐずついていた天気が嘘みたいに晴れ間がさしてきた。
海沿いをドライブするのなんて久しぶりで、揺れる度にキラキラダイヤのように光る波をずっと眺めていた。
お店に着くと、ちょうど海が見えるところに誘導された。
食事を始めてしばらく経つと先生は、
「課題は解けましたか」
と聞いてきた。
「言葉の意味は解けました。ですが、それがどういう意図なのかは、先生からの解説が必要です」
と私は答えた。
すると先生は私を見つめて、
「affettuosoと言うのは、音楽用語で愛情を持ってという意味が含まれています。私は美葉子さんに抱く感情の中で、確かに愛情を持っています。ですが、愛情を持ってあなたに接するには、あなたからの同意が必要です」
と言われた。
先生に見つめられながら、寄せては返す波の音がここまで聞こえてきていることに気づいた。
海が醸し出す音は心地よく、先生に引き寄せられる私の心もとても自然なことに思えた。
「先生、私同意を得られるような立場じゃないんです。でも気持ちは先生と重なり合っています。これは紛れもなく本当です。本当を貫くには周りを嘘で固めないといけなくなります」
「美葉子さんの立場は分かっています。美葉子さんの気持ちも重なり合っているとすれば、僕も美葉子さんの嘘を一緒に固める。そんなに怖いことじゃない。子供のころに作った砂山を崩れないように固めるみたいなもんさ」
「じゃあ先生せっかくだから作りませんか、砂山」
食事が終わると、店から見えていた浜辺で先生と裸足になって砂山を作った。
ふと大の大人2人で何やってるんだろうと思ったけど。
でも周りには誰もいなかったし、子供のときに作った砂山より頑丈に作れた。
砂山の下をそれぞれ両側から掘って、トンネルが開通したとき、先生と私の手が触れた。
私が先生に笑いかけると、そのまま手を引っ張られ抱き寄せられた。
そのとき私は足元がよろつき、砂山を踏んでしまった。
「波に飲まれるくらいなら、自分で崩してしまった方がいいと思わない?」
先生にそう言われた。
「せっかく作ったのに?」
そう私は返した。
「また作ればいい。次はもっと頑丈なの」
砂だらけになりながら残念そうに目線を落とすと、先生にキスされた。
先生を見上げると、そのまま蛇口のある方に歩いて行ってしまった。
そして砂を落とすからこっちに来てと言われた。
先生は私の足の砂を丁寧に落としてくれた。
汚いからいいと言ったら、
「なぜ?洗うんだから綺麗になるでしょ」
と笑われた。
そこからまた先生の車に乗り込んで、海沿いをドライブして帰ってきた。
浜辺で拾った貝殻も一緒に連れて。
その日から先生と私は頻繁に会うようになっていた。
ドライブをして食事する日もあれば、拾ってきた貝殻を瓶に詰めて先生の家で一緒に眺めているだけの日もあった。気づくといつも木曜日だった。先生のレッスンが木曜は休みだったから。だから今日のレッスンが終われば、きっと明日また会える。
私の生きがいのなかに先生がいる。

本屋の時計を見上げると、時刻は間もなく6時になるところだ。
開いていた本を閉じ、元あった場所へと返す。
音楽教室へと足を運ぶ。
私は秋川先生の待つ教室のドアをノックした。

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