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ルドルフ・シュタイナーその魂の探求と社会有機体3分節論ー自由・平等・博愛の真の意味は?

LIルドルフ・シュタイナー、日本でも「シュタイナー教育」や「人智学」でかなり知られている思想家で、ご存知の方も多いことでしょう。

ルドルフ・シュタイナー


彼の語った思想の領域と量は膨大なものです。ここでそのすべてを語ることなど到底できません。
彼はアカデミズムからは「胡散臭いオカルト」という烙印を押されてきました。
しかし、その思想は、当時というか今なお世界を席巻している「唯物論」と「人間機械論」、一方での「観念論」などの限界を超越する,「魂」の探求でした。霊的(スピリチュアル)な存在である人間の本質の解明でした。
また彼は単なる机上の思想家ではなく、この三次元世界の生身の人間による実践の基盤を築いた社会活動家でもあったと思います。
ルドルフ・シュタイナーは、日本でも「シュタイナー教育」や「人智学」でかなり知られている思想家で、ご存知の方も多いことでしょう。日本でもモモなどで人気があるドイツの有名な童話作家のミヒャエル・エンデもこのシュタイナー哲学から大きな影響を受けています
社会思想家としてのシュタイナーは「社会有機体3分節論」として、こういう意味のことを語っています。
「社会有機体は政治=法領域/経済領域/精神=文化領域の三つの部分に分節化されねばならず、政治=法領域には平等の原則、経済領域には博愛(友愛)の原則、精神=文化領域には自由の原則が支配しなければならないと考えます。
フランス革命において、提唱された人権宣言のなかで唱われ、近代市民社会の基本テーゼとして、「民主主義国」のコモンセンス(一般常識)になったのが、「自由・平等・博愛(友愛)」です。よく知られているフランス国旗はこの3つの理念を表現する三色旗(トリコロール)ですね。

LIBERTE:自由 EGALITE:平等 FRATERNITE:博愛


シュタイナーは自由・平等・博愛(友愛)の3つが、いわゆる「民主主義国家」の中でごった煮にされていることが問題の根源である、と考えるわけです。
この自由・平等・博愛は、歴史的にはフランスで始まった「市民革命」によって人類は獲得した社会概念です。
フランスの三色旗(トリコロール)に象徴される「自由・平等・博愛」は、いわゆる近代民主主義国家の基本テーゼですね。
今の状況は自由・平等・博愛の精神が歪められて、それが「民主主義」の形骸化と劣化堕落を招いており、彼が懸念した事態に陥っています。
その理解と解釈を一部の権力者たち(奴ら)が自分たちの支配と金儲け(利益追求)のために都合のいいように捩じ曲げて、この理想を羊頭狗肉化して、大衆の暮らしや地球環境に悲劇的な惨状をもたらしているのが現代の「グローバリゼーション」の本性であると思います。

●自由のはき違いの自由主義経済(新自由主義)
まずは自由に関して掘り下げてみましょう。
私たち大衆は奴ら流の経済軍事覇権(ニューワールドオーダーNWO)を究極の目的とする”グローバリゼーション”、つまり、具体的には多国籍企業の人モノ金が国境を越えて”自由”に行き来でき、奴らの”自由”を制限する規制はすべて悪として国家に圧力をかけて規制緩和撤廃させ、”自由”にどこの国でもビジネスができる世界、命や生活の基盤を支える公共サービスまで民営化=グロー
バル資本への売り飛ばし させる世界、農民が自由に種を自家採種する自由の剥奪すること、etcが、が自分たちを豊かにしてくれる正義だと洗脳され奴隷化されてしまっています。

日米関係などG7の間の「”自由と民主主義”を共通の価値観とする」という建前でしかない外交的看板が、世界的なテレビ新聞の世論操作で是とされ、そうではないとみなしている国(ロシアや中国など)に対する対抗や戦争が正義とする大きな罠(欺瞞)がそこに仕掛けられているとは思いませんか?
そのような政治を推し進めている自由民主党が党名に掲げる「自由」って一体何なんでしょうね??
これまで貪欲で狡猾な闇の勢力(グローバルエリート・カバール)による世界支配と民衆の自由を奪う監視奴隷化と搾取が着々と進められてきました。
しかし、経済活動の野放図な膨張と資源略奪や独占の「自由」は絶対に認められないと思います。
グローバル資本主義経済を牛耳っている1%のエリートが牛耳っている金融、エネルギー、食料、医療製薬などの多国籍巨大企業が世界中で自由というか放縦に悪徳搾取型ビジネスを展開しています。
彼らの拠り所にしている「新自由主義経済」とは、「自由」という美名の略奪型、破滅型経済であり、持続可能ではないし宇宙の法則にも反しています。
「真の自由」とは、すべての人間が闇の奴隷から解放され、自由意志を尊重されて行動を選択できることと、アートなど創造活動や思想信条の表現活動の自由、一言で言えば”魂の自由(精神の自由)”にあります。
このような理念はもちろん日本国憲法でも保証されていますが、今、改憲の動きのなかで国家権力にとって不都合な市民活動を監視し、違憲行為として取り締まるための安保法制(共謀罪など)が施行され、政府の独裁を発動する緊急事態条項を憲法に忍び込ませようと自公政権や維新などの勢力は企んでいます。大衆の自由(基本的人権)を奪う極めて危険な兆候です。

●平等のはき違い
次に「平等」とは、何かを考えてみましょう。
貧富の格差をなくすための平等はもちろん大切ですが、皆の個性を殺して、多様性を排除する学校教育という世界のなかでの均質化(同質化)や、労働者に対する報酬や地位(年功序列など)の共産主義的な機械的な平等は、本当の平等ではないのではないでしょうか?
たくさん与えたものはたくさん恵みが与えられる(返ってくる)のは、原因と結果という宇宙の法則です。
宇宙創造主の定めた法律(宇宙の法=ダルマ)とそれに基礎をおく人間世界の「法律」の前での平等が、その本質であると思います。

ただ、ある国家的犯罪に関与していても、権力サイドで不正な利益供与した悪徳な政治家や官僚は罰せられず、利権供与されてきたものだけが罰せられているトカゲの尻尾切りも「法律」の前での平等と言えるんでしょうか?

さらにいうならば、人間がもつ魂(霊性)とは、神(宇宙創造高次元意識)の分け御霊であり、皆が、内に神の光を灯している存在である。だから皆が神である、内に神我を有する存在という意味での、”人間の尊厳における平等”が本質的な平等として重要です。
でも、三次元世界では人間は全く平等ではないではないかと非難も聞こえてきます。確かにそうです。世の中には健康な人も、病気や障害をもった人もいる、裕福な人も貧しい人もいる、皆、それぞれ置かれている環境や身体的あるいは精神的環境は異なります。その意味では、とても平等とは言えませんね。
それはカルマという個性の違いや魂の履歴という多様性の現れにしか過ぎません。一人ひとりが遍歴してきた輪廻転生という長い長い魂の旅路で積み上げてきてしまったカルマ(思い癖)が違っているから、自分がこの三次元世界で体験し「学ぶ」ことを選んだ課題が違うから、当たり前なのです。そこには良いも悪いもないんです。

これも神による人間の尊厳への愛の表現態です、つまりたとえどんなに厳しい課題であろうとも、その学びを通じて魂を錬磨しながら人間はそれを必ず乗り越え、魂を進化させていく存在であるという意味で「神」の前では絶対的に平等なのです。
今まさに体験しているそれぞれの人生すなわちライフプランこそ、善悪や正邪の二元性を超えた愛の創造者としての神の愛であり、恩寵なのですよ。

●博愛のはき違い
そして最後の「博愛(友愛)」の考察に移りましょう。
「博愛(友愛)」こそは、まさに貪欲と搾取が支配する現代の生き馬の目を抜くような弱肉強食の奪い合いの経済活動(生態系や大衆から富や命を奪い取って不幸に陥れるグローバル経済)に欠けています。博愛(真の愛)こそ、五次元の新しい地球レベルの「経済活動」には必要不可欠な原則です。
博愛は、仏法でいう慈悲の利他行為であり、キリスト教ではアガペに基づく行為です。人や社会、地球を愛し、まずは人類の同胞達や「地球・自然・いのち」のしあわせのために見返りを期待せず与えること(自然の場合は、与える行為とは環境汚染の防止と除去、生物多様性を増やす自然再生などです)、宇宙の法則である原因と結果の法則によって自分に還ってくるものは感謝して受け取ることです。

⚫最後に
シュタイナーが提唱したこのような考えを、理想だと一笑に付すことは簡単ですが、ボクは単なるユートピア論や現実逃避の気休めではないと思っています。一人ひとりがこの三次元世界の現実と向き合い、そのなかで葛藤する「魂」の現場で活かしていくための、物事の最も本質的な部分としての滋養として受け止めたいと考えます。

執筆文責 能村 聡

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