巨人 堀岡隼人「野手にリリーフされた男」
アメリカのメジャーリーグで2023年から野手の登板を制限するそうです。2022年シーズンは野手の登板が132回もあったといいます。
背景には25人のロースターで過密日程のシーズンを戦わなければならないメジャーのシビアなルールがあります。日本のように二軍と選手を入れ替えながらやりくりというわけにもいかないのです。
だからアメリカで増加しているのと裏腹に、日本プロ野球で野手の登板は珍しい光景です。野手登録だった中日ドラゴンズの根尾がマウンドに上がったことは話題になりましたが、彼は高校時代に甲子園の胴上げ投手になった経験があります。結局2022年シーズン途中からは投手登録へ変更されました。
それ以外では巨人の増田大輝の登板が記憶に新しいところです。2020年8月6日の甲子園で行われた巨人と阪神の7回戦で、増田は阪神11点リードの8回裏一死から登板しました。
最初に対戦した近本をセカンドゴロに抑えると、続く江越には四球を与えましたが、大山をライトフライに打ち取ってこのイニングを終了させました。その投球は最速138キロの速球にスライダーも織り交ぜた立派なものでした。
こうなると立つ瀬がないのは11失点を喫した投手陣です。特に8回の頭から登板して一死しか奪えず7点も取られた堀岡隼人にとっては悪夢とでも言いたい状況です。
試合後に増田を登板させた巨人の原監督は次のように話しています。
増田が登板することになる甲子園の一戦。巨人の先発はメルセデスでした。2回まで阪神打線を無安打無得点に封じましたが、3回に近本のタイムリーで先制を許すと、続く4回には植田の2点タイムリーを浴びるなどしてこの回を投げきる前に降板しました。一方の打線は阪神の先発・高橋遥人に7回3安打無得点と抑え込まれ、一方的な展開となっていきます。
メルセデスの後は沼田、宮國、田中と繋ぎ、堀岡が阪神4点リードの8回に登板しました。敗色濃厚ですが、4点差なら満塁ホームラン一発で追いつく可能性はあります。何より一軍定着のためアピールしたい堀岡にとっては是が非でも結果が欲しいマウンドです。
しかし、最初に対戦した3番のサンズにヒットを打たれました。続く打者は4番の大山です。大山はファウルふたつでツーストライクとなって3球目を打ちました。打球は堀岡の正面へのゴロでした。これをダブルプレーにできていれば、後の展開も違っていたでしょう。
堀岡はサンズの代走・江越を封殺すべく二塁へ送球しました。これが逸れたのです。二塁手の若林がジャンプしてどうにか捕球します。セカンドベースを踏もうとしますが、足が届いていません。若林は一塁に送球しましたが、こちらもセーフとなりました。二死ランナーなしとなるはずが無死一二塁のピンチとなってしまいました。
そこからは滅茶苦茶になりました。ボーアにタイムリーを打たれると、梅野にストレートのフォアボールを与え、続く木浪には初球をタイムリーにされました。なおも無死満塁で植田にはフルカウントから四球となり、押し出しで3点目を失います。
島田がライトフライに倒れようやくアウトをひとつ奪いました。続くピッチャーのガンケルの打順には代打の中谷が送られます。
その直前、島田の打席のあたりで巨人ベンチを温めていた内野手の増田と捕手の岸田がキャッチボールを始めました。両者ともアマチュア時代に投手の経験があります。ブルペンには大竹、鍵谷、中川、大江と4人の投手が残っていましたが、接戦を任せられている彼らに投げさせるわけにもいきません。堀岡を諦めて野手に投げさせるという屈辱的な作戦が現実味を帯びていました。
中谷が打席に立ちました。初球のスライダーは低めに外れます。2球目、堀岡にとってこの日29球目は144キロのストレートでした。これが甘く入ります。中谷のスイングが白球を完璧に捉え、レフトのフェンスの向こう側へ飛ばしていきました。
打者8人を相手に4本の安打とふたつの四球で7失点。満塁ホームランで同点の状況をキープすべく登板した堀岡は、満塁ホームランを浴びて野手のリリーフをあおぐことになりました。
堀岡という投手はそれほど高い評価でプロ入りしたわけではありませんでした。
青森山田高校のエースだった堀岡は2年秋の東北大会で優勝して春の甲子園に出場しています。しかし、最後の夏は11イニングで10個の四死球を与えて課題を露呈しました。青森県大会4回戦で県立大湊高校に敗れ、夏の甲子園には届きませんでした。
その最後の試合が、どことなく野手にリリーフされた甲子園の阪神戦と重なります。
大湊高校との試合で堀岡が登板したのは8回表でした。2-0というスコアでリードしていたのは青森山田です。エースとして試合を締める責任を背負いましたが、二死満塁のピンチを招いてしまいました。そして、この場面でふたり続けて押し出しの四球を与えてしまうのです。
同点に追いついた大湊高校は勢いづきました。もはや堀岡に食い止めるすべはありません。9回表にタイムリーヒットを浴びて勝ち越しを許しました。
その裏の青森山田の攻撃はツーアウトとなり、後がなくなりました。ここで堀岡に打順が回ります。運命のいたずらと言いたくなる状況で、打球は二塁手の守備範囲へ転がりました。ヘッドスライディングは届きません。そうして堀岡の高校野球は終わりました。
落ち込むな、という方が無理でしょう。
未来を考えられなくなるまで追い込まれましたが、高校の監督の勧めもあり巨人の入団テストを受けることになりました。この時点で堀岡は最速144キロで大きく目立つものを持たない投手です。それでも身長は183cm、体重は84kgと体格に恵まれ、それを操る身体能力もありました。テストは合格でした。
無事にドラフトで指名されましたが、先に書いたとおり評価は高くありませんでした。というより最低に近い評価でした。育成ドラフト7位。この年のドラフトで12球団が指名した115人のうち114番目の指名です。堀岡より後に呼ばれたのは同じ巨人の育成ドラフト8位・松澤裕介しかいません。松澤は前年も巨人に育成ドラフトで指名されましたが、故障の影響で入団辞退していました。仮にそこで辞退していなければ堀岡が〈ドラフト最下位〉になっていたかもしれません。
プロ野球選手になれる者となれない者たち。その境界線が堀岡のスタートラインでした。
プロ入り後は二軍の公式戦にも登板できない日々が続きました。
故障の影響もあります。ルーキーイヤーから右肘のクリーニング手術を経験しなければなりませんでした。
そんな堀岡に強みがあるとすれば、最底辺からであっても這い上がろうとする意志でした。入団テストを受験し、ほぼ最下位の評価でもプロ入りしています。泥臭い反骨精神を持たなければやっていけません。
肘のリハビリで投げられなければ下半身を鍛えました。同期で同学年の高田萌生や大江竜聖が公式戦に登板して経験を積む一方で、堀岡は三軍で地道に歩み続けていました。
初めて二軍公式戦のマウンドに上がったのはプロ入り3年目となる2019年4月19日のことでした。ファーム公式戦の阪神との試合で2番手としてマウンドに上がりました。2イニングを投げて被安打0、奪三振2、与四球1、無失点という結果を残しています。
ここから快進撃が始まりました。7月下旬までに二軍公式戦15試合に登板して21イニングを投げました。この間に本塁打を浴びることはなく、3セーブを記録しています。防御率も0.86と打者を圧倒しました。7月26日には支配下登録され、一軍の公式戦に出場できるようになりました。実際に3試合のみながら一軍登板も果たしています。
続く2020年はさらなる飛躍を期して臨んだシーズンでした。野手にリリーフされることになるあの阪神戦まで、一軍で5試合に投げて防御率1.69と成績は安定していました。
しかし、堀岡は8月6日の試合で2本のタイムリーと押し出しのフォアボール、そして満塁ホームランで7失点しました。「堀岡を投げさせることの方がはるかに失礼」と評され増田大輝にマウンドを譲りました。当然、翌日には二軍へ落ちました。
この年は再び一軍へ昇格し、プロ初ホールドも記録しました。シーズン通算では12試合に登板して0勝0敗1ホールドとなりましたが、防御率は阪神戦の大量失点も響き7.82に終わっています。
翌年、堀岡は二軍で43試合に登板しました。けれども一軍から声がかかることはありませんでした。シーズンが終わると再び育成選手へ戻されています。
プロ6年目の2022年は支配下登録への復帰を目指しましたが、果たせぬままシーズンが終わってしまいました。
もしあのとき、と思うことがあります。もしあのとき、何かが違っていれば、何か違うことをしていれば、今の自分も違う何かになれていたのではないか?
誰もがそういう問いかけに囲まれて生きています。堀岡の場合は、野手にリリーフされた甲子園の阪神戦がそのひとつでしょう。
もしあのとき、違うピッチングができていたら。
もしあのとき、大山のピッチャーゴロでアウトを取れていたら。
あるいは、高校最後の試合がトラウマを植え付けていて、堀岡の炎上をより酷いものにしてしまったのでしょうか。もしあのとき、連続の押し出しで追いつかれていなかったら、堀岡の人生は違っていたのでしょうか。
それとも――もしあのとき、野手にリリーフされていなかったら?
かつて巨人のエースとして通算203勝を挙げた堀内恒夫は、増田大輝がマウンドに立った瞬間にテレビを消したとブログに記しています。
堀内が語ったのは対戦相手への配慮です。客観的に俯瞰した立場の意見と言えるでしょう。しかし「やっちゃいけない」と怒りを覚えた背景には、投手出身としての主観があったように感じられます。馬鹿にされてると思わないか同情したのは、阪神球団以上にマウンドを降ろされた堀岡に対してではなかったのでしょうか。
プロ野球の世界で投げていれば滅多打ちされることもあります。とはいえ野手にリリーフされ、あまつさえ投げることが失礼と評されることはそうありません。その屈辱が堀岡の自分を信じようとする気持ちを淀ませ、実力の発揮を阻害している。可能性として考えうる話です。
もしあのとき、野手にリリーフされていなかったら、堀岡の〈今〉は先の見えない育成選手としてもがき続ける日々とは違っていたのかもしれません。
堀岡がこんなことを言っていました。
ほとんどドラフト最下位からスタートし、二軍でも投げられないまま2年間を過ごした右腕は、プロ3年目の急成長で一軍まで駆け上がりました。しかし、そうやって階段を2段飛びするような状況が無理を生じさせていました。
もしあのとき、いきなり一軍へ上がらず、課題を丁寧にひとつずつ解消していたら、野手にリリーフされる悲劇は起こらなかったのでしょうか。
これは意味のない問いです。プロ野球選手が優先すべきは一軍の試合に出ることです。実力が足りていないとしても、そこに立ったら結果を出すしかありません。一軍に上がらなかったら、などと仮定するくらいなら堀岡は入団テストを受けなかったし、ドラフトの極端な低評価を受け入れてプロ入りする必要もありませんでした。
そもそも〈もしあのとき〉と問うこと自体に意味はないのです。いくら考えて想像を巡らせても、過去は変わりません。自分の歩幅で階段を1段1段上がっていく。そうやって今日、明日、明後日、さらにその先へ挑み続けるしかありません。
プロ7年目の2023年、育成選手の堀岡隼人は春のキャンプを二軍で迎えました。途中で一軍へ昇格し、紅白戦に登板することになりました。
同じ育成選手の鈴木にヒットを打たれ、完璧なスタートで二盗と三盗を決められました。ここに課題があります。それでも、150キロを超える速球と縦の変化球で3人のバッターから三振を奪って1回無失点に抑えました。あのとき野手にリリーフされた男は今、目の前だけ見据えてひたすら腕を振っています。
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