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『君の名は。』が「泣ける」アニメではなかったという幸運

 大学に通っていた4年間で観たアニメには面白かったものがいくつもあるのですが、瞬間最大風速で言えばこれが一番ではないかという作品があります。

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 TRIGGER制作のアニメ『キズナイーバー』です。

 そのあらすじは、痛みを感じない体質でいじめやカツアゲに対してもされるがまま無気力な日々を送っていた主人公の勝平が、6人のクラスメイトと互いに痛みを共有する「キズナイーバー」にされるというものです。基本的には「キズナイーバー」の7人と彼らにミッションを与える少女の園崎を描いた青春群像劇になっています。

 本作は多くの支持を得て成功したとは言えません。傷や痛みを主題に据えた内容だけに雰囲気が沈みがちで、なかなか爽快に盛り上がらないのも一因でしょう。1クール全12話という尺は8人の群像劇を描くには短く、その結果「キズナイーバー」絡みのシステムの話が少し散らかってしまった印象もあります。

 しかし、ぼくにとって『キズナイーバー』は欠点を補って余りある魅力に溢れた作品でした。メリハリの効いた視覚表現が良質で、主題歌を始めとした音響も効果的に空気を作り上げています。キャラクターはデザインも個々の性格も魅力的だし、脚本には彼らの関係を生々しく刻みつけようとする気概があります。そして何より瞬間最大風速の大きさが鮮烈な印象を残しています。

 このアニメ最大の魅力を生み出したのはあるキャラクターの存在でした。

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 勝平たちと共に「キズナイーバー」にさせられた新山仁子という少女です。

 現代日本の七つの大罪のひとつ「不思議メンヘラ」を背負う痛い子ですが、一方で他者を思いやる真摯な優しさがあり、友達をとても大切にする女の子でもあります。

 彼女は「キズナイーバー」として過ごす日々の中で同じく「キズナイーバー」のTENGAくんに好意を寄せるようになります。

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 しかしTENGAくんは勝平の幼馴染の千鳥に惚れていて、千鳥の方は勝平に好意を持っています。勝平の気になっている相手が園崎ということも含め、「キズナイーバー」たちが抱く恋愛感情はひたすら片思いでした。

 勝平たちは肉体的な痛みだけでなく、それぞれが抱く心の痛みも共有するようになります。勝平と園崎の繋がりに千鳥が悲しみ、それを目の当たりにしたTENGAくんが怒りに任せて勝平を殴りつける中、仁子の心の声が漏れます。

《ちょうだい……》

 仁子は「キズナイーバー」の繋がりを得たクラスメイトたちと共に過ごした思い出を大切に思っていました。だから彼らが衝突してしまう光景に胸を痛めます。

「なんで喧嘩するの……?どうして?仁子たち……友達になったんじゃないの?」

 しかし、友情を重んじる言葉に偽りが無くとも彼女本人の強い思いが溢れるのを止められません。

《いらないなら天河くんちょうだい……》

 このシーンは『キズナイーバー』9話の「万事休す……かしら」で描かれます。ここがこの作品の瞬間最大風速であったとぼくは思うし、他作品でもこれ以上に「刺さった」と感じる場面はなかなか思い浮かびません。

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 久野美咲さん演じる仁子の「ちょうだい」という痛切な声を聞いたとき――その思いを抱えながら喧嘩を止めようとする彼女の姿を見たとき、胸が強く締めつけられ泣きそうになったのを覚えています。もしかしたら実際に泣いていたかもしれません。

 それから何日かはずっと悲しい気持ちを引きずるように胸中に重さを感じて過ごしました。

 胸に響くような作品を初めて観たわけではありません。悲しみを覚えるような切ない作品に触れたこともあります。しかし、この『キズナイーバー』の9話ほど深く刺さる感覚を覚えたことはありませんでした。当時の自分もなぜこの作品がこれほど特別な印象をもたらしたのか疑問を抱いています。

 その答えを求めたとき、ぼくは『キズナイーバー』という作品を振り返り、そしてこの作品を受け止めようとした自分自身を振り返ることになりました。

「勝平くん。あなたがどうして幼い頃から謂れのないいじめを受けているかわかりますか?」
「うどんみたい……だから?」
「怖がらないから。みんな誰かの特別になりたいと願っています。それがプラスの感情だとしても、マイナスの感情だとしても」

「あなたが痛がらないから。あなたが嫌がらないから。みんなあなたの中に自分を見つけられない。だから苛立つ」
「俺の中に自分を……?」
「みんな、繋がりたいんです。誰かと」

(『キズナイーバー』1話 「一目あったその日から、絆の花咲くこともある」より)

 誰かの中に自分を見出すことが特別なのは、それが誰に対しても可能ではないからです。替えがたい価値のあるプライオリティは人それぞれ異なっています。だから人間は本質的に対立していて混ざり合わない。その事実にこそ誰かと繋がる尊さの源泉があります。

 ぼくは『キズナイーバー』を通して自分の存在を視界に捉えました。新山仁子という強く愛を望む少女の中に自分を見つけたのです。

 アニメを観ることにより大学生活の中で自分が恋をしていることに気づいた。高校までにまともな人付き合いをしてこなかったぼくの恥ずかしい経験のひとつです。




 『キズナイーバー』が放送された2016年、あるアニメ映画が公開されました。

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 新海誠監督作品の『君の名は。』です。

 都会の少年と田舎の少女が互いに入れ替わる不思議な現象に端を発する物語を描いた本作は、興行収入250億円超という大ヒットを記録しました。

 そしてヒットする作品の宿命か、この作品はひとつのラベルを貼られることになります。

 そのラベルにはたった一言、「泣ける」と書かれていました。

 ぼくは公開当時から自分がこのラベルに特段の魅力を感じる人間ではないと認識していたのですが、この『君の名は。』は是非とも映画館で観たいと思いました。正直この映画が面白いかどうかも泣けるかどうかも重要ではなくて、観に行くことが幸福だと信じたのです。同じ大学に通う、同じバイトをしている同い年の子と一緒に行けたなら。

 しかしアニメを観てようやく恋愛感情を自覚するような体たらくです。気になる相手を映画に誘う自信も技術も勇気もありませんでした。そして、それらのいずれも持ち合わせずに恋愛を成功させることはできません。

 『君の名は。』は8月に公開されましたが、観ることが無いまま11月を迎えていました。ここに至ってぼくはようやく映画館へ行く決意をします。「泣ける」と評判のこの作品を観てひとりで思い切り泣くためです。かすり傷にはマーキュロクロム。失恋の傷には涙の放流がよく効く、と。

 映画が始まり流星が描かれる美しいカットがスクリーンに映りました。それを観て「宇宙みたいな壮大なものが関係あるのか?」などと考えます。ぼくのTwitterのタイムラインはガルパンの劇場版だろうがシン・ゴジラだろうが、大ヒット作のネタバレが全く流れてこない平和なものでした。

 ふたりのキャラクターを描くどちらかと言えばミクロな視点の物語を予想していたぼくにとって、この映画が流星から始まったことはなかなか意外でした。それは「思っていたのと違う」ということでもあります。瀧や三葉といったキャラクターが登場し、彼らをコメディと共にテンポよく描き始めても「思っていたのと違う」という感覚は抜けませんでした。

 もっといかにも泣けそうな雰囲気で、ついその気になって同調の涙を流せるような作品ではないのか?

 途中で作中の真実が明かされ、ぼくの脳内はそれを整理しようとします。長澤まさみさんが演じる奥寺先輩を見て煙草を吸う女性もいいなと思ってみたりします。クライマックスに向けて盛り上がっていく展開にはごく当たり前に高揚を覚えます。「思っていたのと違う」。その感覚はなかなか消えません。映画が終わったとき、ぼくは一粒も涙を流せていませんでした。

 ああ面白かったな。

 それが映画を観て残ったものの全てです。妙に晴れやかな気分でした。映画を観る前、映画館行きのバスに乗りながら抱いていた思い切り泣きたいという願いは忘れていません。それが叶わなかった事実もはっきりと認識しています。しかしそれでいいと思いました。

 多くの人が『君の名は。』は「泣ける」と言いました。サークルの先輩は観れば感動すると言って薦めてくれました。けれどもそれは作品の本質的な価値ではないのです。「泣ける」というラベルは他人が貼ったものだし、仮に自分が泣いたとして、それは作品が感性に届いて機能した末の結果です。どう届いて機能するのか、創作の技巧と情熱はそのために凝らされるものであり、そちらの方が作品にとって重要なはずです。

 『君の名は。』は「泣ける」作品ではありませんでした。しかし素晴らしい作品であることは疑う余地もありません。色彩に優れ美しい映像に、テンポ良く飽きのこない展開、キャストの演技も作品の空気を丁寧に表現しています。確かにスクリーンの向こうにひとつの世界がありました。そこに息づく人々の存在がありました。アニメは現実を救ってくれないし失恋したぼくを泣かせてくれないけど、それでもぼくはアニメが好きで、その理由がどこにあるのかよくわかる作品でした。




 今になって振り返ればあのとき『君の名は。』で泣かなかったことは幸運であったように思います。

 あのときを除いて泣くために作品を観ようとしたことはありません。コメディアニメを観るときは笑える面白さに期待するし、日常アニメを観るときは穏やかな癒しへの期待がありますが、それらの結果に対する期待が「アニメを観たい」という気持ちの先に出ることはありません。唯一先に出たのが『君の名は。』を観に行ったときでした。

 もし『君の名は。』で泣けていたらぼくの中でアニメや物語の価値はそこに集約されてしまったように思います。物語を観ることが「泣ける」とか「笑える」とか「前向きになれる」という誰かの手で貼られたラベル通りに感情を作動させるただの確認作業になっていたかもしれません。人間の感情、そして人間が生きることはそんなに機械的ではないのです。虚構の中に実感を見出すという最も人間的な行為に触れているのだから機械的になるはずがありません。

 『キズナイーバー』や『君の名は。』から時間が経ち、2018年になって大学4年間に放送されたアニメで――あるいはオールタイム・ベストと言っても良いくらいの作品と出会いました。

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 マッドハウス制作のいしづかあつこ監督作品『宇宙よりも遠い場所』です。

 全13話のこの作品のうち、大半の話数でぼくは泣かされました。誰もが抱える理想に届かない苦しさの中で、それでも前を目指し同じ方向を見る誰かと共に踏み出す人々の意志の尊さにぼくは泣きました。

 多くの人々から高く評価された本作にもやはり「泣ける」というラベルが貼られています。ぼくもその記載内容を否定することはできません。

 しかし涙を流すのはそれが「泣ける」作品だからではないと信じています。苦しみを理解して、踏み出す恐ろしさに共感して、前進する力強さに憧れる。そのとき『宇宙よりも遠い場所』という作品の中に過去現在未来すべてを内包した自分を見つけることができます。そうやって対立に満ちた世界で自分の外側と繋がる実感を得たとき、感情が許容範囲を超えた衝撃に揺さぶられて泣くのです。それはラベルに従って感情を制御し捻り出す涙とは明らかに違います。ぼくは『宇宙よりも遠い場所』を実際に自分が楽しんだ形で楽しめたことを幸運と思っています。

 『キズナイーバー』の新山仁子の中に自分を見出し、『君の名は。』という傑作によって泣きたいから泣くより面白いものを面白いと思える自分に気づけました。やはり物語の価値は自分の外にある虚構に自分自身を見つけられることです。その結果泣くこともあるでしょうけど、過程を考慮しない結果は意味を持たないし、それだけ取り出しても評価基準にはなり得ません。

 とは言ってもアニメに機械的な反応しか示さずとも、アニメの力を借りないで自分の感情を自覚し、広く交友や恋愛をできる方が幸せではないかと思うこともあります。物語は結局のところ自分の外にしかなくて、それをいくら広く深く解釈できても自慢にはなりません。自分という存在でしか生きられない以上はその内側を充実させられる方が立派です。

 ぼくはこれからもアニメを見続けるでしょう。時に泣いて時に笑って時に励まされて時に文句をつけて、時に自分はアニメを観ていていいのかと自問自答するかもしれません。そういう自分のあり方を確信と共に肯定できるかと問われれば違うと言わざるを得ません。

 それでもひとつだけ、アニメを観たいと思えるうちは観ることを肯定して良いだろうと思ってみます。ぼくは『君の名は。』を観て「泣ける」かどうかが作品の絶対的な価値ではないというあまりに当たり前の事実を体感できました。誰かが思う幸せや立派もまた自分の外にしかなくて、自分の内側の絶対的な価値にはなりません。自分だけの宝物を大切にして、生きている実感を守り抜いたことをいつか誇りたいのです。

 いつかを望む凡人にそれはやってこないとか、いつか後悔する公算の方が高いなんて話もありますけど。

 本質的に外側と対立する世界で、ぼくは自分の内側の価値観を信じることで意識的に対立しようと思います。それは内に籠ることではなく色々と現実の人や物事に触れた上で信じるということです。そうして得られた経験や知識や言葉はアニメが描く世界の解像度を上げてくれる気もします。とりあえず今はそういう生き方で。


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