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「衰えぬ投手」は「老化」したのか? 村田兆治の逮捕

 元プロ野球選手の村田兆治が逮捕されたと報道されました。

 千葉ロッテマリーンズの前身にあたるオリオンズで23年間の現役生活を過ごした村田は、通算215勝を挙げた大投手でした。その彼が空港で検査員に暴行した疑いで現行犯逮捕されたというのです。金属探知機に何度も引っかかり検査が終わらず腹を立てたことが原因とも言われています。

 引退から30年以上が経過し、村田は72歳になりました。歳をとって我慢が効かなくなる。そんなごく普通の「老化」にまつわる話に過ぎない気もします。過去にプロ野球の世界でどれだけ活躍したとしても老いと無縁ではいられないし、また原因が老いであれ何であれ、罪を犯したのなら適切な裁きを受ける必要があることには違いありません。

 しかし村田が何かを我慢できなかったということについて、少しの驚きのようなものを感じずにはいられませんでした。ぼくは自分が生まれる前に引退した村田兆治という投手のことを詳しくは知りません。それでも野球ファンであればいくつかのエピソードは自然と聞こえてくるほどの大投手であり、それらのエピソードが形作る村田の人物像は保安検査場で暴力を振るう高齢者のそれとは乖離しています。

 このことは結局ファンが知りうるのはプロ野球選手という偶像の一部分のみであり、ひとりの人間としての彼らのことは何もわからないという、今更言うまでもない事実でしかないのかもしれません。けれども、偶像しか知りえないファンだからこそ、この悲哀をそれだけで留めてしまいたくないとも思えてきます。




 通算215勝という実績の他に村田兆治の名を広めているものと言えば、まずマサカリ投法が挙げられます。

 右肩を落とし、高々と上げた左足で大きく踏み込むと、そこから右腕を豪快に振り下ろす独特のオーバースロー。マサカリと言われても金太郎の歌くらいしか馴染みがありませんが、一度見れば確かにマサカリ投法だと納得させられるインパクトのあるフォームです。

 さらにサンデー兆治の異名も広く知られています。これは1985年のシーズンに開幕から毎週日曜日に中6日で先発登板を続けたことからそう呼ばれるようになりました。今でこそ中6日のローテーションは当たり前の戦術として定着しましたが、当時は中3日や中4日で先発することも珍しくない時代であり、村田は先駆者のような存在でした。

 このような起用をされた背景には、右肘の手術の影響があります。

 1982年のシーズンに右肘の痛みから不調に陥った村田は、翌年になっても症状が改善しなかったことから渡米し、スポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブ博士の診断を受けることになりました。そして彼の執刀により左手首の腱を右肘へ移植する手術を受けます。

 村田兆治を取り上げた山際淳司のノンフィクションには、この時の村田とジョーブ博士のやり取りがどのようなものであったか描写されています。

「同じケースを扱ったことがある。やはり野球のピッチャーでトミー・ジョンという。彼の場合、腱の移植手術をして立ち直った。そのケースと同じです。要するに腱が切れかけている」

「でも、腱が切れかけていたら投げられないでしょう」――と、村田。

「あなたはこの状態で投げていたのか?」

「投げていました」

「信じられない!投げられる状態じゃないですよ」

 今日では村田が受けた手術はトミー・ジョン手術の通称で広く知られ、珍しくないものとなりました。ジョーブ博士が名前を出した通りメジャーリーグの投手であったトミー・ジョンが初めて受けた手術であることが通称の由来ですが、村田が施術された時点でトミー・ジョンの事例から10年も経っていません。もちろんこの頃の日本ではほぼ知られていない手術でした。

 一応は村田以前にトミー・ジョン手術を受けた日本人もいました。ロッテオリオンズで村田の後輩だった三井雅晴という投手です。

 速球派右腕として将来を渇望されていた三井は、入団2年目の1974年に6勝4セーブと活躍して新人王に選ばれました。翌年には10勝4セーブを記録するなど、先発と抑えを兼任しながら高卒5年で通算27勝19セーブを記録しています。

 しかし若いうちから登板を重ねた影響か右肘の痛みに悩むようになり、1979年には渡米してジョーブ博士の手術を受けることになりました。紹介状もなく、メジャー専門誌だけを頼りに博士の元を訪れたといいます。

 三井が受けた手術は成功しました。しかし、かつての投球を取り戻すことはありませんでした。

「問題は術後のリハビリを、いかに我慢強く進められるか。完治まで3年はかかる。しかし選手は少し良くなると、すぐ無理をしたがる」

 ジョーブ博士はそんな風に語っています。

 三井は早く投げたいという焦りから、治っていない肉体に負担をかけてしまいました。最初の手術から5年程度しか経過しておらず、リハビリの方法論が確立されていなかったこともあるでしょう。

 手術から3年後の1982年。三井は28歳でプロ野球の世界を去りました。


 村田がトミー・ジョン手術を受けた時点で日本人が復活できたという話は知られていませんでした。そもそも、この時代は肘にメスを入れることがタブー視されていました。かつての手術は損傷部位に到達するために正常な部分まで切ってしまうなど今以上に復帰まで時間がかかるものであったことから、「手術=選手生命の終わり」という認識が広がっていたのです。

 もちろん村田にも手術を受けるまでの葛藤がありました。ジョーブ博士が亡くなった2014年には次のような話をしています。

「ただ、渡米を決意するまでは悩みました。そもそも当時の日本では、体にメスを入れた選手が完全復活できたケースがなかった。それにいくらお金がかかるかもわからない。今のように球団が保障してくれる時代でもないし、今とは違う覚悟が必要でした」

 それでも当時33歳の村田は再びマウンドに上がって完全燃焼することを望んでいました。他に復活のための手はありません。

 村田は手術を受けました。そして、後輩で先に手術を受けた三井のアドバイスもあって焦らずリハビリに取り組み、マウンドに帰ってきました。

 サンデー兆治としてフィーチャーされる1985年。村田は4月14日から5月26日まで毎週日曜日に7試合連続で勝利投手となるなど開幕11連勝を飾り、シーズン通算では17勝5敗と完全復活を遂げました。

 この活躍でカムバック賞を受賞した村田の存在は、手術の有効性を広く知らしめました。後に桑田真澄、松坂大輔、ダルビッシュ有、大谷翔平といった投手たちもトミー・ジョン手術を受け、この手術は一般的なものとなります。

 マサカリ投法、サンデー兆治、そして肘にメスを入れることがタブーだった時代にトミー・ジョン手術で復活した先駆者。これらのエピソードが今日でも村田兆治の名を野球界の鮮烈な記憶として留めています。




 1985年に35歳で復活した村田は、その後も先発完投型のエースとして活躍しました。

 復活の翌年から4年間の勝ち星は8勝、7勝、10勝、7勝と推移していきます。1985年の17勝ほどは勝っていませんが、彼の年齢や1986年以降のオリオンズが勝率5割に満たない弱小チームであったことを加味すれば、その活躍は稀有なものとなります。1989年には通算200勝を達成し、自身3度目となる最優秀防御率のタイトルも獲得しました。

 そして現役最後のシーズンとなった1990年、40歳となった村田は開幕投手に選ばれ1失点完投勝利を挙げました。そのままシーズン通算でも4完投2完封で10勝を記録しています。

 これほどの活躍を見せながら引退した理由は、先発完投という彼自身のこだわりにありました。

「変化球主体でやれば、まだ数年はやれたかもしれない。しかし、それでは私の考える“村田兆治”ではないんです。自分が頑張ってこられたのは、先発完投にこだわり、与えられた仕事を最後までやり通すことが、自分のプロとしての意地、モチベーションにつながっていたから。自分の限界は自分が一番よくわかる。もう自分らしい投球ができない、このままいけばファンを裏切る成績しか残せないと思ったので、“けじめ”をつけたんです」

 村田がサンデー兆治として復活の1勝目を挙げた1985年4月14日、彼は155球を投げて完投しています。ジョーブ博士には100球という投球制限を課されていたにも関わらずです。それだけ村田には先発完投への強い思いがありました。

 自身が望む投手像を保てなくなり、村田はプロ野球のマウンドを去りました。しかし、そのことは「村田兆治」という投手の終わりを意味しません。引退後もトレーニングを継続し、始球式でマウンドに上がった際には、現役時代と同じマサカリ投法から年齢を感じさせないピッチングを披露しています。

 引退するシーズンまで完投能力を備えた投手として二桁勝利を挙げ、引退後もストイックな姿は変わりませんでした。村田兆治という人物は「衰えぬ投手」であったと、そんな風にも形容したくなります。

 そして、この「衰えぬ投手」のイメージが、逮捕された村田の「老化」を受け入れがたいものにしています。




 村田が「衰えぬ投手」たりえたのは、トミー・ジョン手術によって選手生命を繋ぐことに成功したからです。

 トミー・ジョン手術は手術そのものより、1年ほど投げられないというリハビリ期間に苦しみがあります。再び投げたいから手術をしたはずの投手が、投げることを禁じられたまま地道なトレーニングを強いられるのです。

 リハビリを進めていけば肘は回復していきます。しかし、そこで焦る気持ちのまま投げようと思えばかつての投球を取り戻すことはできません。

 村田がこなしたリハビリメニューの中にやわらかいスポンジボールを握るトレーニングがありました。何度も何度も繰り返しスポンジボールを握ります。また投げたい。その熱くたぎる思いは焦燥感となって燻り村田を焦らしました。

 やがて破裂音が響きます。

 不安と焦りと苛立ち。村田はスポンジボールを握り潰していました。

 それでも村田は着実に復活への階段を登っていきます。後輩だった三井雅晴の教訓を生かし、ジョーブ博士の言いつけを守り、不安定に揺れる心と向き合って丁寧に自分を制御しました。

 今でもトミー・ジョン手術後のリハビリは臥薪嘗胆の辛い時間として語られますが、その期間を終えればほぼ確実に復帰できるという光明があります。村田はそうではありませんでした。身体にメスを入れることが禁忌とされていた時代。その手術は一般的ではなく、確かな情報と呼べるものも殆どありませんでした。さらに後輩の三井が手術を経ても復活できないまま引退したのを目の当たりにしています。我慢。ひたすら不安に耐える絶望的な日々です。

 だからこそ、村田兆治にはストイックで我慢強い男というイメージがありました。日本プロ野球で初めて忍耐の先にある復活を掴み取り「衰えぬ投手」となった彼が、72歳になったからといって「老化」で我慢が効かなくなり事件を起こしてしまうのか。ある意味で偏見に満ちた荒唐無稽なことを書いていますが、ここにはやはり小さな驚きがあります。




 村田は我慢強い男だった。それは手術にまつわるエピソードから導き出された「偶像」の一面に過ぎません。けれどもマウンドに上がれない日々を耐えきったことは、彼が保安検査の時間くらいなら我慢のできる人間だったはずであることの証拠にはなりうるでしょう。村田には我慢をする能力がありました。

 もっとも、その能力を失ってしまうことが「老化」なのだと言えば全く矛盾の無い主張になります。問題はこの矛盾の無さに不満を覚え、否定してしまいたい気がすることです。

 村田が復活できた要因は、先発完投のエースとしてまだやれるはずという確信と、そういうエースであり続けることを望む欲求にありました。これは「村田投手」という「偶像」としての心意気です。

 一方で確信と欲求を土台として支えた我慢強さは「村田兆治」というひとりの「人間」が持つ性質ではなかったのか。ぼくはそう思いたいのです。

 有象無象の「人間」では到達できない「偶像」の境地。しかし、そこに至った者たちですら根本の部分で「人間」であることから逃れられない。むしろ「人間」としての極めて現実的な部分こそ「偶像」のまばゆい輝きの源になっている。そのことにぼくたちが「偶像」というある種の虚構を必要としてしまう理由があるのではないか。

 それも結局ひとりの「人間」を「偶像」に作り替える虚構の魔力に魅入られてしまっただけかもしれませんが、要するにぼくは村田の逮捕という知らせに失望し、失望が抵抗感に繋がっているのです。

「……天職ですからね。ぼくにとって投げることは天職なんですよ。だから三年間、じっとガマンすることができた。思う存分投げられるところまで待つことができた。ほかのことだったら、こんなに長く待てなかったと思いますよ。つらかったからね」

 先に取り上げた山際淳司のノンフィクションで村田自身のそういう言葉が紹介されています。ほかのことだったら、こんなに長く待てなかった――野球の世界で光り輝く「偶像」だった村田は、その野球だったからこそ我慢強くいられた。本人がそう話しています。

 野球の世界から離れたひとりの「人間」村田兆治は当たり前に加齢して衰えていくことでしょう。この事実を責める権利など誰も持ち合わせていません。ぼくたちはやがて「老化」していくのです。

 でも、待ってくれよという気分にはなります。村田兆治ほどの存在ですら、野球という天職が絡まない場所で当たり前に「老化」していくのか。そうやって死に近づいていくのだとしたら、村田でもそれに抗えないのだとしたら、天職など持たず最初から最後までただの「人間」として生きていくぼくたちの時間に何の意味があるというのか。

 「衰えぬ投手」のひとりの高齢者としての醜聞には、栄光への旅程を終えた者がまとう悲哀だけでは片付けられない何かがあります。




 今回の事件について村田は容疑を否認しているといいます。事実がどのようなものであったか正しく調査が行われ、当事者間で正しい解決がなされることを願っています。

 そして、事実がどのようなものであるにせよ、村田兆治には野球という天職を愛する偉大な投手であり続けてほしいとも思います。先発完投を信条とした「衰えぬ投手」がゲームセットの前に投手としての看板を降ろす姿は見たくありません。

 やはり「偶像」としての彼に依存しすぎているのかもしれないけど、少なくとも村田が「衰えぬ投手」であった理由の本質はピッチング以外の部分にあったはずです。引退するシーズンで二桁勝利したとか、63歳で135キロを投げたとか、そんなことが彼を「衰えぬ投手」にしたわけではありません。

 「衰えぬ投手」はなぜ40歳で引退を決意したか。もう一度振り返ってみます。

「しかし、それでは私の考える“村田兆治”ではないんです。自分が頑張ってこられたのは、先発完投にこだわり、与えられた仕事を最後までやり通すことが、自分のプロとしての意地、モチベーションにつながっていたから」

 変化球主体である程度試合を作る仕事ならできるかもしれない。でも、それは本人にとっての「村田兆治」ではありません。先発完投にこだわり、他者の助けを求めず、最後まで力強い速球で抑え続ける。その矜恃が「衰えぬ投手」の本質です。実際に完投することや速い球を投げることより、自分はそういう存在なのだと信じきってしまうことの方が重要なのです。

 人間が虚構に依存したとき、いずれは現実をつきつけられます。それでも虚構は無意味ではありません。虚構が現実を変えることはできないのだとしても、その中に見出した何かを現実世界で生きるための教訓とすることはできます。 どんなに憧れたってスーパースターにはなれないけど、スーパースターと同じ心意気で生きてみることはできるかもしれません。

 引退から32年。先発完投へのこだわりが、マサカリ投法を、サンデー兆治を、トミー・ジョン手術からの復活劇を、今日まで轟く伝説にしています。

 何かに拘泥して譲らないでいることは、時に無様で滑稽で幼稚に映ります。でもそうすることがただ老いて死んでいくだけではない何者かになる方法ではないかと、そんな気もします。

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