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内海哲也の65勝

 冬が近づくジャイアンツ球場で、ふたりの野球選手が練習していました。

 加治前竜一と井野卓。読売ジャイアンツの選手です。正確には読売ジャイアンツの選手だった、と書くべきかもしれません。

 この日は2014年11月7日です。プロ野球のシーズンは閉幕し、ドラフトも終わっています。そして、各球団は選手たちへの戦力外通告を済ませていました。加治前と井野は来季の契約を得られなかった選手に含まれていて、2日後に静岡の草薙球場で行われるトライアウトに向けて自主トレに励んでいたのです。

 戦力外通告を受けたふたりはいわば温情で練習場所を提供されている立場でした。そんな彼らの練習にひとりの選手が加わります。

 全体練習が始まる30分前の室内練習場。加治前と井野のために打撃投手を務めているのは、サウスポーの内海哲也でした。ストレート、スライダー、チェンジアップ、ツーシーム。あらゆる球種を黙々と投じていきます。

 この頃の内海と言えば、巨人の顔と言ってもいいような存在でした。2014年のシーズンこそ7勝9敗に終わっていますが、前年まで4年連続で二桁勝利を挙げています。2011年からは2年連続で最多勝を獲得しました。さらにこの年まで9年連続で規定投球回到達と、巨人の投手陣を牽引する主力選手でした。

 シーズンオフに入った時期であり、内海ほどの実績がある選手ならば身体を休めるため投球から遠ざかっていてもおかしくないはずです。

「同じチームだった。力になりたくて。合格へ足しになれば。何とか頑張ってほしい」

 内海はそう話しました。

 トライアウトが終わり、井野はヤクルトと契約することができました。加治前も社会人野球の三菱重工長崎で現役続行を決めています。ふたりは内海の思いに応えることができたのです。




 それから8年近くの歳月が流れた2022年8月16日、内海哲也の引退が発表されました。

 2014年まで9年連続で規定投球回に到達していた巨人のエースは、その翌年から昨年まで7シーズンで一度も規定投球回に到達することはありませんでした。2018年のオフには、巨人へFA移籍してきた炭谷銀仁朗の人的補償として西武へ移籍しています。移籍1年目の2019年は故障で一軍登板できませんでした。以降も出番は少なく、2022年シーズンはコーチ兼任となりました。ここしばらくは選手としてほぼ活躍できていません。

 それでも急にひょっこり復活するんじゃないか。内海は心のどこかでそんな期待を抱かせる存在でした。巨人ファンにとっては思うような成績を残せなくなってからも、エースだった彼の姿が脳裏に強く焼き付いているのです。

 しかし考えてみると、内海は巨人のエースだった頃から圧倒的な投球をしていたわけではありません。球速は大抵140キロ前後です。2007年には最多奪三振のタイトルも獲得していますが、どちらかと言えば緩急を混じえて丁寧に粘り強く投げ、着実にイニングを重ねていたイメージが残っています。打者をねじ伏せるというより、ランナーを出しても牽制やクイックの上手さを生かしながら傷を広げず、ピンチを耐えて失点を防ぐ投手でした。

 内海の復活に期待したくさせていたのは、かつてのピッチングもさることながら、その人柄にあったように思います。戦力外通告を受けた選手のために自分の時間を割いて打撃投手を務めるほどのチーム愛と優しさは、内海哲也という人間の象徴でした。

 彼の人柄の良さを示すエピソードは枚挙に暇がありません。育成選手として入団しながら9年連続60試合登板の偉業を成し遂げた山口鉄也など内海への恩義を語る後輩は数多く、歳上の杉内俊哉や村田修一といった選手たちもFAで入団した際にチームへ溶け込めるよう配慮してくれたことへの感謝を述べています。また、2007年のオフシーズンに球団がグライシンガーやクルーンなどの大型補強を敢行したことについて、ラジオ番組で「生え抜きを信じろよと言いたい」などとコメントしたこともありました。この発言は球団から怒られたようですが、生え抜きとしての自覚と同時に、加治前や井野に見せたものと同質のチームへの愛着が込められているようにも思えます。

 自分以外に頼れる者がいないマウンドの上で、人生をかけて白球を投じ続けるのがピッチャーというポジションです。その中で内海の心優しい性格は異例とも呼べるものでした。そして、そのことが彼の唯一無二の魅力でもありました。




 内海のチーム思いの行動の原点には若手時代の経験があります。

 敦賀気比高校時代から注目されていた内海は高校卒業時のドラフトでオリックスから1位指名を受けますが、かつて祖父がプレーしていた巨人への憧れが強かったため入団を拒否します。そして社会人野球の東京ガスを経て念願の巨人への入団を果たしますが、当時のチームは憧れていた世界とは異なるものでした。

 内海が入団した頃、巨人の投手陣には上原浩治や桑田真澄、高橋尚成に工藤公康と、実績のある投手たちが複数いました。

「エースと呼ばれる先輩方は一国一城のあるじとしてそびえ、寄せ付けないオーラを放っていた。若手が気軽に会話するなんてとんでもない話。常にピリピリした空気が漂い、恐怖すら感じた。俗に言う派閥もあった。誰かと話すだけで『内海はあっちについた』とささやかれたりした」

 この経験は内海にとって繰り返したくない辛い記憶でした。それが前述の球団批判ともとられかねない発言の一因になったのでしょうし、先輩後輩や実績の有無に関係なく、分け隔てなくフラットな関係性を築こうとするモチベーションにもなりました。

 2000年代後半から2010年代前半にかけて、巨人は二度のリーグ三連覇で黄金期を築きました。それはエースとして活躍すると同時にチームの和を作り上げた内海の献身性なくして実現できなかったものです。

 だからこそ、もしも内海がかつての先輩たちのように孤高の存在として自分のためだけに振舞っていたのならと、そんな仮定を考えてしまいます。もしも内海が自分の投球だけを突き詰めていたのなら、もっと太く長く活躍できたのではないか。チームのために果たした役割の大きさは、彼個人が犠牲にしたものの大きさでもあるでしょう。

 内海の後継エースとなった菅野智之も、どちらかと言えばチームのために自分を犠牲にする印象はありません。エースとは本来そちらの方が自然のようにも思えるし、内海がそういう存在だったなら、かつて「カネムラさん」と名前を間違えた金田正一氏が送った「名球会で待ってる」の言葉通り200勝する未来があったのかもしれません。そのカネムラさんことカネやんにしても、エゴイズムが窺えるエピソードが今日まで語られる投手です。

 19年間の現役生活でこれまで内海が挙げた勝利数は135でした。手放しに賞賛されるべき、立派な数字です。しかし、巨人のエースだった頃にいつか届くのではないかと夢見ていた200勝には65勝分届きませんでした。この65勝はファンとして叶わなかった夢ですが、同時に内海が所属したチームに捧げてくれたものに通算65勝の価値があるのだと、かなり大げさな気もしますが、そう主張してみたくもあります。上原や菅野の方が内海より凄い球を投げていましたが、二度のリーグ三連覇で歓喜に浸らせてくれたエースは上原でも菅野でもなく内海でした。




 内海について、印象に残る一年があります。それは上原浩治がMLBへ挑戦したためエースとしての期待を背負うことになった2009年です。

 シーズン前には第2回WBCが開催され、内海も代表に選出されました。

 しかし大会では巨人での役割とは違う中継ぎ待機を求められた上に出番が少なく、唯一の登板となった試合では先発しながらも制球に苦しんで3回途中の降板となりました。

 そしてWBCに照準を合わせた調整を強いられたこともあってか、シーズンはスタートダッシュで躓いてしまいます。

 開幕から7試合連続で白星が無く、原辰徳監督からは「侍スピリットはないのか。今のままならニセ侍だ」と苦言を呈され、二軍調整する時期もありました。

 それでも交流戦で侍ジャパンのエース格だった岩隈久志に投げ勝ってシーズン初勝利を挙げると、以降は本来の姿を取り戻して先発ローテーションの柱に君臨します。9月には月間MVPを受賞する大活躍でチームのリーグ三連覇に貢献しました。

 優勝を果たして次に狙うは個人記録です。この年のリーグ最終戦となった神宮球場のヤクルト戦に先発した内海は、4年連続の二桁勝利に王手をかけていました。

 相手のヤクルトも主力選手をスタメンから外した中で、内海は制球に苦しみつつも6回2失点で勝利投手の権利を持って降板します。しかし8回に3番手の越智大祐がこの日が引退試合となった城石憲之に二塁打を浴びるなどして逆転を許したため、10勝目を掴むことはできませんでした。結果的に内海はこの前年まで3年連続二桁勝利で、翌年以降も4年連続で二桁勝利を挙げたため、9勝に終わったこの年の成績はかなりもったいない印象を残しています。

 リーグ王者として迎えたクライマックスシリーズの相手は中日でしたが、相性が良くない内海は先発機会を後回しにされ、結局彼が投げる前に巨人が日本シリーズ進出を決めてしまいました。

 日本シリーズ第2戦でようやくこの年のポストシーズン初登板を果たしますが、日本ハム打線を相手に3回途中4失点でノックアウト。故障明けで本調子でなかったダルビッシュ有に投げ負ける結果となりました。

 その後、勝てば日本一の第6戦は順番通りなら内海が先発するはずでしたが、実際の先発マウンドに上がったのは第2戦で内海の後にロングリリーフを務めた東野峻でした。内海はリリーフとして待機することになり、試合前には原監督から「本心であれば、お前を先発させたい。でも、今日の先発は東野だ。自分が投げているつもりで見てくれ」と声をかけられます。エース格の投手として屈辱的とも言えるでしょう。

 腐ってしまってもおかしくない状況で、内海はその役割を受け入れました。そして献身性と闘志を両立させた左腕には、その力を発揮する機会がすぐに訪れます。

 初回、二死一塁で日本ハムの4番・高橋信二と対戦した東野は、打球を右手に受けて降板を余儀なくされてしまいました。この窮地でマウンドに上がったのが内海です。

「10球くらい投げていきました。何とかチームの勝利に貢献したかった」

 リリーフ登板は3年ぶりでした。それでも、自身にとっては苦い思い出でもあるWBCで中継ぎとして準備をした経験があります。上手くいかないことも多かったこの年、直面してきた逆境が最後の最後で内海の力となるのです。

 初回、二死一二塁。初球のスライダーで強打者のスレッジを抑えてピンチを脱すると、以降もランナーを出しつつ要所を締める投球で6回途中まで14個のアウトを奪いました。1点差の5回には、一死二塁のピンチで稲葉篤紀、高橋信二と中軸のバッターを見逃し三振に封じています。

「終わりよければ、すべてよし」

 この試合で内海は勝利投手となり、チームに7年ぶりの日本一をもたらしました。敵地札幌ドーム。敗れれば最悪の流れで最終戦となってしまう重要な一戦。緊急登板でチームを救う役割は内海以外に務められなかったように思います。




 内海は2011年と2012年に最多勝を獲得しています。2012年は3年ぶりの日本一で、彼自身も日本シリーズMVPに選ばれました。それでも、印象に残っているのは2009年です。

 それはこの一年こそ彼という野球選手、あるいは彼という人間らしさを感じさせるからに他なりません。

 上原や菅野のような圧倒的な投球ではありませんでした。それなりにランナーを背負います。しぶとく、粘り強く、コーナーを突き、牽制やクイックを駆使し、地道にイニングを稼いでいく。エースという言葉が持つ洗練されたイメージとは対極ですらあるような、そういう泥臭さをまとっていました。

 それでも大事な場面を耐え抜き、本当に勝ってほしい試合で必ず勝ってくれる。まさしくエースと呼ぶべき投手でした。その姿の象徴として、苦しみ続けた先で歓喜へ辿り着いた2009年があるような気がします。さらに言えば、甲子園の出場辞退、ドラフトの入団拒否、憧れていたチームの派閥争い、年下の東野や菅野に開幕投手を譲る屈辱、プロテクトから外れたことによる西武への移籍など、様々な思うようにいかないことがあり、直線的に進めないながらも確かな実績を積み上げてきた内海哲也の野球人生そのものの象徴にも思えてきます。

 マウンドには一人きりで立たねばなりません。自分が、自分の渾身の一球で打者を封じるのだと、そんな風に考えるのも自然なことです。エースと呼ばれる投手なら尚のことでしょう。しかし内海の投球は、彼だけでなく同じチームの仲間の存在が垣間見えるようでした。全員で戦って、全員で抑えて、全員で勝つ。ミスが出れば互いに全力でカバーする。加治前と井野のために打撃投手を務めた2014年、内海は規定投球回に到達しながら失点と自責点が同数でした。味方のエラーによるランナーは絶対に返さない。そういう思いが伝わるような成績です。

 内海哲也という人間は、自分でない誰かのためにこそ熱い思いを滾らせる心優しいピッチャーでした。もっと自分自身に拘っていたらなんて仮定してみても、彼は現役最後のその日まで“全員”の内のひとりに徹し続けるでしょう。

 誰より和を重んじ、ファンをも歓喜の輪の一員にしてくれた偉大なエース。引退する彼の悔しさや悲しみをぼくらも分かちあっていて、ぼくらが内海を誇りに思う気持ちもまた共有されていると、そうあってほしいと願うのです。

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