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燻る山下航汰と榎本喜八の狂気

 打球が転がり、グラブを伸ばした二塁手を嘲笑うようにライトへ抜けていった。

 攻める巨人はこのヒットでランナー一二塁のチャンスとなったが、それはこの試合にとって重要ではなかった。8回裏ツーアウト。この時点で巨人は中日に5点のリードを許している。代打の選手が単打を放ったからといって、大勢には何ら影響が無い。

 けれども多くの巨人ファンにとってこの安打は特別な意味を持っていた。それはその代打の選手が初めて一軍の試合で放ったヒットだからということが一因だった。

 それだけではない。彼は前の年のドラフトで指名されたばかりのルーキーだった。しかもドラフトでは育成選手として指名された。まだ付け加えれば高校を卒業してそのままプロ入りした18歳だった。彼は二軍の公式戦でリーグトップの打率を記録するほど打ちまくり、その成績によって支配下登録を勝ち取り、そして一軍まで這い上がって球団では岡本和真以来となる高卒ルーキーの初安打を記録したのだ。ファンが次世代スターの最初の輝きを目の当たりにしたと興奮するのも当然の話だった。

 背中に99という番号をまとったその選手は、名を山下航汰という。

 ルーキーイヤーに山下が一軍で放った安打の数は、群馬で記録した初安打も含めて2本だった。打率は.167に留まっている。しかし二軍ではその実力をいかんなく発揮し、打率.332で首位打者を獲得した。高卒ルーキーとしては日米通算4367安打を放ったイチロー以来の快挙だ。

 次々と戦力が増強される巨人において、高校を卒業したばかりの新人が一軍の試合に出場することはそう簡単ではない。その中でヒットを記録できたとなれば、坂本勇人や岡本和真に肩を並べる新星として期待されるのは自然の成り行きだった。あの瞬間、成長した山下が岡本と共に打線の中軸を形成し、一軍でも首位打者を獲得するような夢が確かに存在した。

 しかし、彼は初安打を放った翌年のオフに再び育成選手へ逆戻りした。そしてさらに1年が経過すると、彼は巨人を去って社会人野球の世界へ身を投じることになった。三菱重工Eastという強豪チームでプレーできるのは立派なことだが、彼の現状はかつて期待された通りに輝いているとは言いがたい。育成指名から自らのバッティングで成り上がった打撃の天才は、ファンがかつて抱いた夢に埋もれたまま燻っている。




 大阪府出身の山下は高校進学にあたって群馬の健大高崎高を選択した。機動破壊というスローガンを掲げ、脚力を存分に用いた野球を展開する強豪校である。1学年上には後に巨人でもチームメイトとなる内野手の湯浅がいた。

 この高校で彼を目立たせたのは走塁ではなく打撃だった。2年生の春には甲子園で2本の満塁本塁打を放ち、夏には県大会で5試合連続本塁打を記録した。高校通算のホームランは75本を数える。しかも、ホームランバッター特有の粗さが見られず、打席では殆ど三振しない。その打撃力は根尾昂や藤原恭大、小園海斗といった選手を擁する同世代の中でも最高峰にあったと言っていい。

 しかしドラフトでは育成指名だった。理由は単純で、足の速さや肩の強さが特筆するほど良いものではなかったからだ。山下は打撃に特化した一芸の選手だった。そして、打撃という一芸は守備や走塁に比べ計算が立ちにくい。高校野球では金属バットが使用されているが、プロに入れば木製のものを使わなければならない難しさもある。山下のような選手は打てなければ何もできない木偶の坊になってしまう。どの球団も彼の指名に躊躇したのは無理もないことだった。

 けれども入団してしまえば、彼の一芸は突出した輝きを放っていた。当時二軍で指導していた村田修一コーチが言う。

《対応力が抜群に高いですね。高卒ルーキーは、金属バットから木製のバットに変わった時に打球が飛ばない、変化球にアジャストできないといった壁にぶち当たることも多いんですが、そうじゃない奴もいるんだなと。プロ1年目であれだけ打てる選手はなかなかいません》

 同時に村田コーチは山下の守備をプロではなく「バイト」レベルとも評しているが、高卒ルーキーがひとつでもプロで戦える武器を身につけているのならそれで十分だった。苦手なことは後から補っていけばいい。

 優れた脚も肩も持たなかった彼は、バットだけを頼りに支配下登録を勝ち取り、一軍でもプロとして足跡を残した。2年目の2020年には誰もが彼を一軍のレギュラー候補と見なしていた。しかし、山下はこの年の一軍戦に出場できず、育成選手に逆戻りしてしまう。




 オリックス・バファローズに山崎正貴という投手がいた。高校時代にはソフトバンクに入団した岩嵜翔との二枚看板で甲子園に出場している。柔らかいフォームの好投手として期待されたが、トミー・ジョン手術を受けて育成選手への降格を経験し、復帰後も肘を痛めて戦力外となった。

 その彼が自らのプロ野球生活を次のように振り返っている。

《ケガをしないセンスがなかったってことですよ》

 プロがプロである所以は、特定の分野における技能が常人より遥かに優れている点にある。しかしプロも常人と変わらず人間としての肉体しか持ち合わせていない。だからスポーツの世界でプロであろうとする時、肉体の限界を超えようとする彼らが故障に見舞われるのは当然のこととすら言える。その中で本当にケガするかどうかは自身の心がけによる部分もあるだろうが、そう小さくない部分が運に占められるはずだ。

 だが考えてみれば速く走れる脚も、遠くまで投げられる肩も、打球を高く飛ばす力を秘めた体格も、それを持って生まれてくるかどうかは運による。センスという言葉には努力だけではどうしようもないものを表現する側面があるが、生まれ持った自らの運をそう評する時、優れた身体能力以前にそれを発揮するためにケガしないことはプロとして最も必要なセンスである。

 その意味で、山下は本当に打撃以外のセンスを持ち合わせていなかった。

 新型コロナウイルスの影響でプロ野球の開幕が遅れていた2020年の5月。打撃練習中に右手の痛みを覚えて病院で診察を受けると、有鉤骨の骨折と診断された。有鉤骨は手の付け根の小指側にあるフックのような形をした骨で、ここが折れてしまう野球選手には強打者が多いとも言われる。ともあれ山下はこのケガで期待されていた開幕一軍を逃してしまった。

 重傷ではあったが、シーズン絶望というほどではなかった。当初の予定通り1、2ヶ月で完治すれば、その年のうちに一軍に昇格することは不可能ではなかった。しかしケガという不運は山下がその手から失ったフックを身につけたかのように、次なる不運と連結する。手術を受け手首周りの筋力が低下した山下は、スローイングの際に無意識のうちに手首を庇うようになっていた。そのことで肘に負担がかかってしまう。

 2年目のシーズンを殆どリハビリで棒に振り、一軍に顔を出すことができなかった。そしてオフにはリハビリに専念するためとして育成契約へ戻る羽目になる。山下本人にとっては屈辱的な出来事だったろうが球団の判断も理解できなくはない。守備力も足の速さも肩の強さも、そしてケガをしないセンスもない。唯一持っている打力でルーキーイヤーの活躍がフロックでないことを示せないのならば、彼はただの木偶の坊でしかなかった。

 育成選手に戻ったプロ3年目の2021年、山下は三軍の試合で打率.366を記録した。しかし、二軍では打率.226に留まった。結局支配下登録に戻ることはできなかった。




 特定の条件を満たす育成選手は、オフシーズンに自由契約となる決まりがある。一軍の試合に出場できない立場のまま「飼い殺し」にされることを防ぐためのルールだ。

 2021年の秋に山下はこのルールによって自由契約となった。一応はどの球団とも契約できる立場になったわけである。しかし、本当に他球団と交渉して移籍する選手はごく僅かだ。基本的に育成選手は所属球団から一軍の試合に出場するレベルにないと判断されているし、チームが異なってもその判断はほぼブレることが無い。元の球団より好条件を得られる可能性はかなり低く、自由契約時に育成選手として再契約を提示されたのなら従うことは既定路線と言える。

 高卒3年目とまだ若い山下にも当然のごとく再契約が打診されていた。しかし彼はこれを拒否した。他球団との契約を目指しトライアウトの受験を決断したのだ。

 その理由について取材を受けると、こう答えている。

《ケガもしてなかなか思うようにいかなかったという部分で、何か変えないと、変化させないといけないかなと。それが一番です》

 何かを変えたい。その思いの切実さは理解できるような気がするが、少し漠然としすぎているようにも思える。自身の未来を賭すには、その担保としてもっと明確な具体性が必要ではないか。

 彼のより詳細な思いを想像してみると、まず巨人というチームの特徴に視線が向く。育成選手制度の導入当初から山口鉄也や松本哲也といった成功体験を得た巨人は、福岡ソフトバンクホークスと並びこの制度の利用に積極的なチームだ。特に2020年から2年連続して育成ドラフトで10人以上の選手を指名し、2022年シーズンの育成選手は40人前後となる見込みである。その競争を勝ち抜かなければならないと考えたとき、山下が他球団の方がチャンスはあると判断してもおかしくはない。

 さらに巨人は資金力によって外部からの補強を行えるチームでもある。特に山下が守れる外野や一塁には、強打の外国人を獲得することが予想される。そうした選手が活躍すれば、仮に支配下登録されてもレギュラーになる見込みは低い。それはつまり、レギュラーになれないのだから支配下登録されないという可能性もはらんでいる。

 それから山下は退団に際して巨人で先輩だった小山翔平に相談したともいう。

 キャッチャーだった小山は大学野球の公式戦に1試合しか出場しなかったが、テストに合格して巨人の育成選手になった変わり種である。しかし、彼に与えられた役割の殆どは三軍の試合を成立させるためにキャッチャーマスクを被る「壁」のような仕事だった。3年間の在籍で支配下登録されることの無いまま退団するが、彼はその直前まで秋に行われるフェニックスリーグに参加するため遠征に帯同していた。キャッチャーがいなければ試合ができないからと先送りされた戦力外通告を、フェニックスリーグが終了したその日に受けたわけである。巨人に対して小山が自分の3年間を都合よく利用されたと感じていてもおかしくないし、そのどこか恨みの込められた不信感に山下が感化されることもまた十分に想像できる。

 山下が退団を決意した本当の理由はわからない。山下本人がそれを明瞭な言葉で把握している保証もない。人はどうしようもない衝動に突き動かされてしまう瞬間がある。

 けれども、山下は無計画な人物ではなかった。

《育成契約でのスタートに関しては悔しい思いもありましたが、ジャイアンツ入団が決まったときに、冷静に考えて、5年計画を立てていたんです。1、2年目でファームで結果を残して支配下登録を勝ち取り、3年目でイースタンの首位打者、4年目で一軍に昇格し、5年目で一軍のレギュラーです。これはドラフトの指名会見でも話をしていて、この瞬間を焦らずに、5年後にしっかりと結果を残すために焦らずやろうと。》

 二軍で首位打者を獲得したルーキーイヤーに彼はそう語っていた。この冷静な視点は打撃を極めることでしか生き残れない彼らしいものかもしれない。プロ野球の世界において打撃で生き残るには、1打席だけ場外ホームランをかっ飛ばすような局所性より長いシーズンをトータルして打率3割を記録するマクロ視点の活躍が求められる。そのためには1日の4打席を通して俯瞰する必要があるし、1打席にしても1球ごとに相手バッテリーとの駆け引きがある。直面した状況に衝動だけで動く人間であれば、高卒1年目にして他のプロを抑えて首位打者など獲得しようもない。

 山下の計画はまだ軌道修正が許されるはずだった。3年目を終えて育成選手の立場にあったことは誤算だが、再び支配下登録に戻って4年目の2022年シーズン中に一軍の試合に出場できれば理想との帳尻はとりあえず合わせられる。しかし、山下は巨人を飛び出してしまった。それほど4年目のシーズンを支配下登録の選手として迎えることが重要だったのか。自分を最初から一軍戦力として計算してくれる球団があるはずだと信じきっていたのか。あるいはルーキーイヤーだけで当初の計画の8割を果たせてしまった想像以上の順調さが、冷静な安打製造機だった彼のコンピュータを狂わせてしまったのかもしれない。

 迎えたトライアウトで山下は6打数1安打という結果だった。そして彼が向かうことになった新天地はプロ野球の球団ではなく社会人野球の世界だった。




 ひとりの選手が身を置く環境として一概に社会人野球がプロ野球より劣っているとは言えない。ドラフトで社会人野球の選手が決まって「即戦力」の看板を背負って指名されることは、そのレベルの高さを如実に示している。

 しかし、育成指名であってもプロ入りを決断した若者が、ドラフトから3年してプロ野球選手でなくなったことに悲哀を感じないわけにはいかない。どうしても自分を見誤った末に道を踏み外したという印象が付きまとう。

 本当に道を踏み外したと言うべきかどうかはわからない。これまた本人にもわからないかもしれない。彼自身巨人を退団すればプロ野球選手でいられなくなる可能性は考慮できたはずだが、それでも衝動に従わざるをえないこともある。今の自分とは違う何者かになりたい。そういう憧れには抗いがたい魔力が秘められている。

 新天地で新たな戦いに臨む山下はいかなる憧れを抱いているか。社会人野球の世話になる以上、表立ってプロに戻りたいとは口にしないかもしれないが、いずれにせよ彼は野球を続ける以上バッティングで存在価値を示し続けるしかない。

 そのことを考えたとき、とある伝説的な野球選手の名前が浮かび上がる。その選手のプレーを目にしたことはない。彼の現役時代を生きていた人にとっても、華々しい実績の割に地味な選手であったという話がある。

 榎本喜八。1955年に毎日オリオンズに入団し、18年間の現役生活で2314安打を放った「安打製造機」の元祖と言うべき存在である。

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 早稲田実業高出身の榎本はそれほどプロ野球チームから評価されておらず、ドラフト制度ができる前の自由競争の時代においてどこからも声をかけられなかった。それでも極貧の生い立ちもありプロ入りを熱望していた榎本は、高校の先輩で毎日オリオンズに入団していた荒川博に頼み込みオリオンズの入団テストを受けることになる。彼はそこで打撃力を評価されてプロ野球選手となったのである。

 ルーキーイヤーに146安打を放って新人王を獲得すると、後に王貞治を育て上げる荒川の指導やその指導を通して出会った古武術の方法論によって打撃職人としての道を邁進する。左投げで守備の融通が効くとは言いがたい一塁手だったが、その打力によって自らのポジションを確立した。

 それだけ活躍しても当時のパ・リーグが影の薄い存在であったため、早実出身の一塁手という共通点を持つ王や同じ背番号3を身につけていた長嶋茂雄と比べても遥かに地味な存在だったという。2020年には坂本勇人が歴代2番目の若さで2000安打を達成したことから最年少記録を保持する榎本にいくらか脚光が当たったが、それ以上に彼は華々しい実績以上にその「奇行」を語り継がれる人物だった。

 試合前に練習もせずベンチで座禅を組んでいたとか、試合で打てないとバットで家の物を壊したとか、引退した後も一心不乱にランニングを続けていたとか、猟銃を持って部屋に立てこもり師匠である荒川の説得にも応じず発砲したとか、そういう逸話が数多く残されている。それらの全てが真実というわけでもなく尾ヒレが付いた部分はあるだろうが、現役時代から奇特な人物と見なされていたことは確からしい。そして、そういうどこかネジの外れて狂ったような部分があったからこそ、安打製造機としてバッティングという一芸を突き詰められたとも言える。

 榎本は他の選手のように夜の街に出て酒を飲んで騒ぐようなことをしなかった。下戸だったわけではなく自室で飲酒することはあったと言うが、他人と盛り上がるよりとにかくバットを振り続けるような男だったらしい。バッティングフォームを「型」、トレーニングを「稽古」と呼び、一塁を守っている際にも打席に立つような構えをしてバッティングの道を極めようとしていた。

 人間にはどうしようもない衝動に突き動かされる瞬間がある。けれどもそれは、大半の場合は刹那の拍子に終わってしまう思いつきのようなものに過ぎない。榎本が打撃に対してそうであったような、憧れだけ見据えて衝動のまま走り続けることはほぼ狂人の所業だ。憧れの深みに落ちてより強い輝きを望んだ結果として、榎本は余計に狂気的な人間になったとも言える。




 そういう憧れの危険性を本能的に悟るからこそ、多くの人間は衝動を抱いてもそれを突き詰められず平穏な道へ流れていく。いつまでも果たせない憧れとか希望という類のものが燻って自らを焦らし続けるのだとしても、燃え尽きて消えてしまうより生存を優先する機能が働く。

 巨人を退団した山下航汰の新たな人生を考えたとき、榎本の名前が浮かび上がったと書いたのはそのためだった。ぼくは巨人との再契約という平穏な道を拒否し、衝動に従ってトライアウトへ向かった山下の「狂気」に期待した。それこそがルーキーイヤーに彼が僅かに見せてくれながら燻ったままの「夢」を燃え上がらせる燃料のように感じられたからだ。いや、それは正確ではない。山下のこと以上に、憧れの魔力を信じていてもそこに向かっていけない自分の代わりに燃え尽きてくれる存在を求めていたのだ。

 平穏な現実は人々の根本から滲む衝動を飲み込んでしまう。怠惰な生者に囲まれ、自分もそのひとりとして望んでも劇的な死者にはなれない世界の中で、常人の限界を超えたプロ野球選手ならと期待している。まして山下はただのプロ野球選手ではない。打撃という一芸を極めるしかなく、そのために狂気的でなければならず、そして実際に狂気的な判断を下した男だ。彼ならぼくが憧れている炎の色を見せてくれるのではないかと思った。見せてほしいと思った。見せてくれと願っていた。

 山下航汰はプロ野球選手ではなくなった。三菱重工が彼に与えた待遇がどのようなものか把握していないが、育成選手の不安定な立場より安定した社会人の身分を選んだという見方も不可能ではない。もはや彼の「狂気」に期待することはお門違いなのかもしれない。

 それでも彼が野球を続ける限り信じてみたくなる。結局、野球選手としての山下に自分のバット以上に頼れるものはない。それを突き詰めたとき、シチュエーションも相手投手のボールも自ら放つ打球も、全てが完璧に揃った「最高」の安打を見られるのではないか。その光景こそ、燃え上がる炎の色をしているのだ。

 舞台が変わってもひたすら最高を渇望する憧れと狂気の存在に期待してしまう。あの瞬間ぼくが抱いた夢の続きにはまだ、山下航汰がいる。




参考


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