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これは現代の聖杯伝説 / 映画『チューズ・オア・ダイ:恐怖のサバイバルゲーム』【考察】※ネタバレ有

2022年にNetflixから配信・公開されたサスペンス映画『チューズ・オア・ダイ:恐怖のサバイバルゲーム』。ストーリーもホラーもグロテスクさもシンプルで楽しい作品です。いわゆるB級ホラーにもジャンル分けされるのかもしれません。
主人公は「選ぶか死ぬか」、毎回理不尽な選択を迫られます。なぜそんな理不尽を? 「聖杯伝説」をベースに少しだけ考察していきます。

※本編のネタバレがあります

【考察①】なぜ救いのない選択肢なのか?

 

主人公ケイラは毎回救いのない選択を迫られました。
「休憩(ブレイク・破壊)するか、しないか」
ケイラは休憩を選びましたが、きっと「しない」を選べばずっと働かされる拷問がまっていたでしょう。

「壊すか、片づけるか」
「壊す」を選択したところで、ップの次は何を壊されたのか……。

「どこに逃げる?」
これもどこに逃げてもダメだったでしょう。むしろ、画面外(ゲーム外)へ誘導したのは英断だったのかもしれません。

「助けるか、助けないか」
これはアイザックが従者なのか確認しているようです。(詳しくは【考察②】で書いています)

「青い扉か、赤い扉か」
アイザックが青い扉をあけようとしましたが、開きませんでした。それは、選択権がアイザックではなくケイラにあったからでしょう。それに、どちらを選んでも辛いことがあるのは変わりないように思います……。

「アイザックを助けるか、リッキーを助けるか」
アイザックを助ければ再びリッキーを殺すことになる。リッキーを助けてもリッキーは戻って来ないし、アイザックを死なせることになる。ケイラは最善の選択をしましたが、辛い事には変わりありません。

「巻き戻すか、早送りか」
どちらも同じだったでしょう。このゲームは最初からルール違反をしたアイザックを殺すつもりだったのです。

ケイラだけでなく、冒頭で選択を迫られていた男性ハルも
「息子の舌か、妻の耳」
と理不尽な選択を迫られていました。

ここまで観ると、救いもメリットもない「デスゲーム」です。
ただ、その先に待ち受けている「クリア報酬」を考えると、この理不尽さは妥当なのかもしれません。これは、ゲームが人間に「報酬のためにどれだけ大切なものを犠牲に出来る人間なのか」を問うためのもののようにも見えるのです。

【考察②】このゲームは「聖杯」


画像出典:映画『チューズ・オア・ダイ:恐怖のサバイバルゲーム』公式サイト(Netflix)


このゲーム自体が、実は「聖杯」だったのではないでしょうか。冒頭でハルがゲームを起動した時に画面に映ったのが「聖杯を手に入れる?」という問いでした。
「聖杯」と聞いてまず頭に浮かぶのが、「聖杯伝説」です。聖杯伝説にもいろいろな派生がありますが、「聖杯に正しい問いをすると、聖杯王が回復する」というストーリーがポピュラーではないでしょうか。

聖杯に正しい「問い」
正しい問いをしないと、聖杯は消えて聖杯王は病む(死ぬ)

これは「選択」と「死」とも言い換えられませんか? 
本作が現代の「聖杯伝説」だと考えると、全てがすっきりします。
理不尽な「問い」にどこまで答えられるか、聖杯のためにどこまで捨てられるか
ゲームがアイザックを「従者」と呼んでいたのも印象的です。
ゲーム(聖杯)はケイラを従者つきの「騎士」だと認識していたのでしょう。
アイザックが騎士の一部なら、一緒に試練を受けることを許そう。ということでアイザックが「助けるか、助けないか」を聞いたのかもしれません。

このゲームは相手(騎士)が聖杯に相応しい人物なのかを試していたのはないでしょうか。
最後のボス戦も「どれだけ自分を犠牲にできるか」。つまりは「自己犠牲」を問うています。もし最初の一発で決着がついていたら……相手の為に自殺しようとしていたら……それこそ聖杯に相応しい騎士ではないでしょうか。

さらに、最終的にこのゲーム自体を手に入れた者は、このゲーム(聖杯)に「問い」ます。ケイラの場合はランスに。
「ランス」と言えば「ランスロット」の短縮形でもあります。ランスロットは「聖杯伝説」で罪を罰せられます。本作のランスも最後にはそうなりました。

この聖杯に「問い」続ける限り、聖杯はケイラのものです。「問い」を止める時は、きっとケイラが死ぬ時。そうなれば聖杯(ゲーム)は消えて、再び聖杯にふさわしい者を探すのでしょう。ゲーム製作者の手からケイラへ聖杯が渡ったように。
この残酷な「問い」の先にある、報酬が「聖杯」なら理不尽な選択にも納得がいきます。

【考察③】呪いのゲームなのに「聖杯」? 

聖杯なのに呪い? と思われるかもしれません。
聖杯なら「祝福」「祝い」といった言葉が最適なのでは? しかし、呪いと祝いにどういった違いがあるのでしょうか。どちらも儀式的な行為で、神への祈りです。神は人間の善悪を判断できるのでしょうか
本質的には呪いも祝いも変わらないのかもしれません。
そう考えると
ゲームの題である「呪者」
願いを叶える「聖杯」
どちらも同じものだとは考えられないでしょうか。

まとめ

映画『チューズ・オア・ダイ:恐怖のサバイバルゲーム』を「聖杯伝説」から考察してみました。実は、最初本作を観た時はよくあるB級ホラーか……と思っていました。しかし、2回目の視聴で冒頭の「聖杯」の文字を観て「これは!」と思い、勢いでnoteを書いてしまいました。
「聖杯伝説」にはバリエーションもあり、「聖杯」自体にも諸説あり、私自身も詳しいとは言えないので変な部分もあるかとは思います。ただ、こういう見方もあるんだなあと思っていただけましたら幸いです。
聖杯を手に入れた騎士「ケイラ」に幸あれ。

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