路傍に咲く花(10)
それは、大河原部長から二度目に誘われた時だった。大河原部長と早紀子は、田園調布駅前で待ち合わせると、タクシーを閑静な住宅街まで走らせた。馴染みにしている隠れ家レストランだと紹介された店は、なるほど民家のたた住まいで、一見の客には、それとは分からない造りであった。店の内部は個室になっていて、和風のオリジナル懐石料理の店だと、大河原部長は説明した。
「わたし、このような店にきたの初めてなんで、少し緊張しています」
と、早紀子が言うと、
「そういうところが、伊東君のいいところだね。無理に強がらないで、素直に緊張していると言えるなんて、なかなか今の若い子にはできないことだよ」
と、大河原は持ち上げた。
「えっ、でも本当にそう思うから、そう言っただけで……」
そんなに誉めていただくようなことではない、という言葉を飲み込んだ。
やがて食前酒のワインを口に含むと、少し酔った感覚が身体をつつみ、早紀子の緊張が徐々に解けていった。
この日の大河原部長は、巧みな聞き上手であった。早紀子が話しやすいように質問を投げかけていく。ときどき相槌を打ちながら、早紀子の言葉をうけて、
「君の気持ちはよく解るよ」
と、言葉を返した。
これで早紀子の警戒心が解けたのだろう。狡猾な大河原部長の誘導に、
「わたし、短大卒の一般職だから、木内さんみたいに総合職で、ばりばり仕事できる人が羨ましいんです」
食事がメインディッシュに移るころ、思わず本音を吐露してしまった。
ジュースのような甘口のワインが、早紀子を酔わせてしまったのだろう。大河原部長は、この言葉を待っていた。
「もし伊東君さえよければ、総合職への道を拓いてもいいと思っているんだが」
と、早紀子の目を真っ直ぐに見て言った。
早紀子は一瞬、男女の関係を想像した。が、実際は、男女の交わりよりも、もっと難しいはなしであった。
「いや、別に愛人になれという訳ではないよ。そうじゃなくて、営業部の個人的な情報を、逐一ぼくに報告して欲しいんだ。君も知っての通り、新しい社長を迎え、相当厳しい管理を要求されていてね。部下の掌握は部長として、最低限しておきたい事項なのだよ」
ここで早紀子は気がついた。大河原部長が近づいたわけを。
「と言うことは、私にスパイをやれと……?」
「まあ端的にいえばそう言うことだが、これは管理業務の一環だと理解して欲しい。私も忙しくて、部下となかなか話す機会がなくてね。腹を割ってぶつかりあうことができれば、こんな事はしたくないのだが」
早紀子は、大河原部長の目的を知ってしまい、一気に酔いが醒めた。
だが、きっぱり断ろうと息を飲み込んだ瞬間、
「君しか頼る人がいないのだよ。頼む、悪いようにしないから」
大河原部長に機先を制され、断るタイミングを失ってしまった。
仕方なく早紀子は、
「考えさせていただけますか。いま返事をしろと言われても、事が事だけに……」
と、言葉を濁した。
☆ ☆ ☆
「結局断り切れなくて、部長の話を承知してしまったんです。正直に言うと、総合職への転身ができるというのも魅力で……」
早紀子は、幾ばくかの罪悪感があるのだろう、目にうっすら涙を溜めていた。
「そうだったの、なんだか可哀想ね」
と、万里子が言うと、
「えっ、可哀想って?」
「だってそうじゃない、立場の弱い人に権力を行使するなんて。酷い人よね、大河原部長って。伊東さんも被害者なんだと思うわ。私も伊東さんの立場だったら、同じ事をしたかも知れないし」
万里子は、心からそう思った。
「ありがとうございます。正直、軽蔑されるのではないかと心配していました。でもはなして良かった、本当に」
早紀子は安堵の表情をしたが、万里子にはまだ納得のいかないことがある。
「ところで伊東さん、なんで今、私にこんな話をしたの?」
「じつは、原田さんが部長に暴力をふるった事件があった日、私、部長に呼ばれて怒られたんです。なんで事前に原田のことを報告しなかったのかって。でもわたし、知らなかったんです、原田さんが部長に不満を持っているってことを。だから報告しろって言ったって、できないのに怒られて……」
早紀子の頬に涙がこぼれた。
「部長から『こんなことだと総合職の件も考え直さないといかん』と言われて、わたしは何をしていたのかと思ったんです。それで原田さんの送別会を決行した木内さんに相談しようと思って……」
万里子は、伊東早紀子も苦しんだのだと思った。
もしかしたら、伊東早紀子以外にも、同じような被害にあった人がいるのかも知れない。そと思うと、無性に腹が立ってきた。
「そう、わかったわ。私に少し考えがあるから、伊東さんは今までどおり部長と接してくれる」
暫し沈黙ののち、万里子は意を決するように言った。
「はい、いいですけど……」
早紀子は少し心配顔であったが、
「大丈夫、悪いようにしないから、もう少し我慢して欲しいの。私、大河原部長を絶対許さない」
万里子の目は、スポコンアニメの主人公のように、めらめらと燃えていた。
・・・つづく
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