夢のはなし

大学院の授業『建築論特論』で書いた文章です。建築的思考とは何か、を問う授業。千文字日記と銘打って、学生それぞれがテーマにまつわるエッセイを書きました。自分が書いたのは、『夢のはなし』


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こんな夢を見ました。

夜、まだ、完全な眠りにつく前。目をつむりながら、今日の記憶を思い返していました。最初は、自分の記憶をトレースするように、霧にプロジェクターで映したようなおぼろげな映像が、頭の中で上映されていました。そのうちに、映像の中の登場人物が、なぜか記憶とは違う勝手な行動を始めた、と思ったら、眠りにつこうとしていた自分の体の感覚が、映像の中の自分に移っていき、プロジェクターのピントが合うように、映像の鮮明さが増してきました。あれ、なんだこれ、と思った瞬間。ふっ、と映像が切り替わり、一転、自分はモノクロの海の上に浮かんでいました。海、というか、境界面のようなところに浮かんでいて、直立した姿勢で、うきのようにぷかぷかしていました。上半身は境界面の上にあり、遠くの方に島っぽいものが見えるな、とか、なんだか杉本博司さんの『海景』のような光景だな、とか、わりとはっきりとした意識があるのですが、下半身はなんだかその液体のようなものと一体になっているようで、じんわりと安心する感情に包まれていました。


眠りから覚めたあと。初めて味わうような豊かな感情が、体のすみずみまで満ちわたっていました。でもしばらくすると、意識の強い光に照らされて、頭の中の映像が見えなくなり、感情も蒸発していってしまい、どんな夢の続きがあったのか、どんな感情に包まれていたのか、思い出せなくなってしまいました。ただ、「夢の続き」と「初めて味わったような感情」を、見つけられないけれど、それは確かに存在することを知っている、というような、不思議な感覚だけが残ったのでした。


ふと、この夢を思い出そうとしている時の頭の感覚が、建築を考えている時の頭の感覚に近いような気がしました。ぼんやりと、頭の中の光景を探していく感じ。頭の中では、いつもたくさんのプロジェクターが映像を映しているけど、意識の光で照らしすぎると、映像は見えなくて、何気ない瞬間に、たちこめた霧にプロジェクターのピントが合うと、鮮明な映像がふっと浮かび上がる。そんな様子を想像しました。私たちはその浮かび上がった映像を見つけて、アイデアが浮かんだ、というのでしょうか。


授業を通して、建築的思考とはなんだろう、建築家とはいったい何をしているんだろうと考え続けてきましたが、建築家とは、まどろみながら、いつの間にか忘れていた、夢の中の光景を探し続ける仕事なのかもしれないな、と思いました。

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おわりです。

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