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"Golden Age"

2023/09/10(sun) ワンマンライブを開催しました。
改めてご来場いただいた皆様、ご来場は叶わずともメッセージをくれた皆様、会場となったMojo:Mojaの店長そうさん始め開催までを支えてくれた皆様に感謝申し上げます。


開催が決まったのは確か年始の頃だったような、お店側からの打診が最初のきっかけだった。
開催を決めた明確な日付とかまでは覚えていないものの、人生についてものすごく悩んでいた時期だったことは覚えている。
いつも通りライブを終えた後、そうさんから「9月の10周年のタイミングでイベントやらないか?企画か、ワンマンか、」と言われた。
「そんな2択『ワンマンやります🫡』って答えるしかないじゃんか」という心の声を吐き出さないように努め、一度持ち帰らせてもらうことにした。
そりゃ即決できるようなものではない。
もちろん、何人か演者さんを誘って数組でイベントを開催する選択肢も大いに有り得たが、それがまるで逃げているかのように思える感じがした。
しかも10周年だろ?俺にワンマンなんてできるのか?正気か?
意識の中を、不安ばかりが駆け巡っていた。


迷っている中、所属していた音楽サークルの引退ライブがあった。
以前から僕はイベントを仕切る立場でサークル活動に関わっていた。
引退に際して自分自身もバンドを出し、その日は大成功に終わった。
打ち上げで、隣に座っていた優吾に音楽活動における悩みや迷いを打ち明けた。
彼と知り合ったのもそのサークルがきっかけで、僕がバンドを出すときは毎回参加してもらっていた。
以前からお互いの音楽活動について話すことも多かった。
ワンマンの開催に踏み切るべきか否か、それだけの器が自分にあるのか、自分だけで成立させなければならない重みに耐えられるのかなど、不安な気持ちを彼に吐き出してみた。
すると、「やりましょうよ!なんなら俺サポートしますよ」なんてケロっと言われてしまった。
そんなん言われたらもう後に引けないじゃないか。
その日が引退ライブだったこともあり、その感慨も手伝って、「僕の曲を優吾が弾いたらどうなるのか」「ワンマンでサポートしてもらえば引退しても一緒に演奏できるかな」なんて思いが浮かんできた。
やりたいと思えた。
開催を決めた。
振り返ってみると、背中を押してほしかったのかもな。
5月に行った自身の企画イベントにてワンマンの開催を発表した。


6月、ライブハウスとは異なる現場で本番を経験することになった。
当初、写真家として活動している友人が会社を立ち上げたとのことで、そのオープニングイベントを兼ねて個展を開くという報告を受けた。
その個展にて演奏を頼まれた。
企業した友人はもともと高校の先輩で、僕のミニアルバムのリリースにあたって撮影を頼んだことがあった。
現在のアーティスト写真も彼女によるものである。
オファーの趣旨としてはソロでの演奏が主眼だったが、ワンマンを控えていることもあり、バンド編成でやる機会も設けていただいた。
5月頃から3人で集まってリハーサルを開始した。
パーカッションを担当してくれた柊真は、優吾が紹介してくれた。
2人が通う洗足音大にて練習を重ねた。

僕自身オープニングイベントでは、会場設営に参加するなどして、演奏以外の関わりもあった。
色々と初めての現場でドキドキしていたものの、日々多くの強い刺激に揉まれ、設営から撤収まで、充実した時間を過ごすことができた。
この時期、かつてないほどに曲作りが捗った。


8月、忘れられない経験をした。
ずっと憧れていた片平里菜さんがMojo:Mojaにライブをしに来た。
以前noteにて記事を公開しており、詳しくはそちらに書いたものの、未だにあの日の、興奮冷めやらぬ思いを抱えている。
僕をずっと育ててくれたお店に、憧れのミュージシャンがやってくる。
しかもその約1か月後にその店で僕はワンマンライブをする。
そこだけ切り取ったら、まるで映画にでもなりうる話かもとさえ思えた。
感謝してもしきれない。


9月に入った。
Mojo:Moja周年月間が始まった。
3日の日曜日には、長くお世話になっているComoryさんのワンマンライブが開催された。
スタッフとして関わらせてもらい、強く触発された。

夏休み期間もあって、サポートの2人はとても忙しそうにしていた。
そんな落ち着かない雰囲気の中、最終調整のためのリハーサルが始まった。
少しずつ迫りくる本番。固めていきたい思いと、うまくいかないもどかしさ。
焦りばかりが募っていた。
Comoryさんの姿勢に影響を受けた僕は、演奏以外の準備に取り掛かった。
来場者限定のポストカードを用意し、当日使うための小道具を仕込んだ。
その準備の時間が、思いのほか、かなり楽しかった。
焦る気持ちを忘れて没頭できる時間だった。

会場BGMについては早い段階からプレイリストを作成して準備をしていた。
普段から自分で聴きながら、当日への気持ちを高めたりもしていた。
選曲の意図は、『自身の楽曲における元ネタ特集』。
好きな曲を2~3曲くらい思い浮かべながら、それらのコード進行、メロディや歌詞、フレーズ等々を借用しながら形にしていく。
その元になったアイディア達を展示するようなつもりでプレイリストを作った。

リハーサルを重ねるごとに少しずつ楽曲の形が整ってきた。
やっぱ2人ともすげぇ〜って感じだった。
最後のリハを終えてスタジオを後にし、録音した演奏を聞きながら、ワクワクする気持ちを抱えて帰りの電車に乗った。
いよいよって感じがした。

少しでも多くの人に聞かせたい気持ちが湧き上がった。
その瞬間を共有したい人が何人も思い浮かんだ。
何人かに直前で新たにお誘いの連絡をした。
その連絡をきっかけに来てくれた人、忙しい中スケジュール調整を試みてくれた人、来られずとも暖かいメッセージを返してくれた人。
独りではないことの実感が湧いた。
そうやって気にかけてくれる全ての人に喜んでもらえる日にしたいと心の底から思えた。
開催を迷っていた頃に抱えていたような弱気な思いはいつの間にか消えていた。


当日、昼過ぎまでは穏やかに過ごしていた。
しかし、心の奥底の焦りのせいか、予定の1時間ほど早く会場入りした。

ゆっくり準備をした。
楽器やマイクを取り出し、少しずつセッティングしていった。
今回使った2本のギターには思い入れがある。
アンプから音を出したK.Yairiの楽器は、中学生の頃買ったもの。
2年ほど前までメインで使っていた。
楽器内部のシステムが調子を崩し、Mojo:Mojaオーナーが経営する楽器工房Wood Harmonizeに持っていった。
システムを入れ替えることになり、代わりの楽器として別なアコギを貸してもらうことになった。
表面のひび割れが目立ち、裏返すとネックが折れた跡も残っている、かなりインパクトの強いMartinだった。
弾いてみたら、音は間違いないと思えた。
1か月ほど借りている状態が続き、預けていた楽器を引き取りにいくタイミングで購入した。
楽器本体が持つ音の良さが直接出るシステムを新たに搭載させ、かれこれ2年ほどメインで使っている。

メンバーの遅れが分かり、リハ以外にできる準備を全て終わらせて到着を待った。
優吾が到着、2人でできる最大限の確認をする。
柊真が到着、大急ぎで音を合わせる。
当初の予定より30分遅れての開場、お待たせしてしまい大変申し訳ありませんでした。
ちゃんとみんなに挨拶できて始められたのが個人的には嬉しかった。

S.E.とともに開演した。
ステージの裏でOKAMOTO'Sの『なんかホーリー』を聴きながら扉を開けた。
S.E.選びはかなり迷ったけど、ものすごく楽しかった。
ちょっと鼻にかかったような素朴な歌声で曲が始まり、ちょうどいいタイミングでキメが入るこの曲を選んだのはやはり正解だったと思えた。
もう後のことはほとんど忘れた。
優吾が全力で弾いてたのはさすがに覚えてる。
やりすぎ、リハの3倍くらい弾き倒してる姿にちょっと引いた。
少し促すと、みんなすぐ手拍子してくれたのが心底嬉しかった。
ブッキングライブでは話せないような各曲における背景の話とかもできて、ちょっと悦に入る時間もあった。
何より、やってる立場として、楽しかった。
舞い上がりすぎることなく、堅実に、且つ瞬間ごとを謳歌することができた。

みんな喜んで帰ってくれた。
「楽しかった。」「カッコよかった。」「あっという間だった。」「好きなあの曲が聴けて嬉しかった。」等など喜ばしいお声がたくさん聞けた。
もちろん反省点はいくつもある。
自分でも、このバンドの主導権をもっと強く握るべきだったのは紛れもない事実だと思っている。
バンドの難しさ、やるたびに実感する。
ただやはり、思い入れのある場所で、喜んでくれる皆さんの前で、活動におけるこれまでの歩みを自分自身で認められるような機会が持てたことは、他の何にも替えがたい喜びがある。
少しでも誰かの毎日に貢献できていたとしたら本望かもしれない。
幸せの実感が湧く瞬間だった。

お花をくれた一二三四五六さん、まあ坊さんありがとうございます

今回、久しく会っていなかったかつての友人が、遠いところ見に来てくれた。
高校時代、ともにバンドやユニットを組んでいた彼は、僕にとって青春の象徴だった。
卒業後も、僕のレコーディングやライブで演奏してもらうなど付き合いが続いていた。
コロナ禍もあり、一緒にやらなくなってからは、連絡する機会もなくなり、時間とともに以前のような距離感の近さは失われていた。
そんな彼に連絡をしてみると、せっかくだからと足を運んでくれた。
ほんとに良い奴だ。
終演後には、かつて2人で演奏したような曲を多く披露したこともあり、お互いに色々な記憶を蘇らせながら会話を弾ませた。
僕が彼に対して、独りでに感じていた申し訳なさと後ろめたさが、少しずつ和らいでいくような心地がした。

ご来場の皆さんへの挨拶を一通り終え、片付けをする柊真と少し会話をした。
「稀に見る楽しさだった」と言ってくれた。
なんだかひとつ報われたような気持ちになれた。
ステージを共にしてくれた張本人の口からそんなことが聞けるなんて、感慨もひとしおである。
お越しくださった皆さんの眼差しが暖かい雰囲気を支えてくれた。
柊真の言葉から、きっとあの空間にいたみんなの心に喜びが芽生えたのではとさえ思えた。
僕はライブでこれがやりたかったんだと思い出した。
僕が目指す幸せのひとつの形が見えたような気がした。


最後に、そうさんと2人店に残り話をした。
色んな記憶を掘り起こしながらイベント全体を振り返った。

最初にMojo:Mojaを訪れた頃、僕は16歳だった。
気づけば4~5年ほどの付き合いになっている。
高校3年の頃、こどもの日にMojo:Mojaで初めて企画を行った。
それに際して作ったのが『Switch』という曲だった。
そうさんがいたく気に入ってくれて嬉しかった。
その後働くようになった。
越谷での閉店から移転作業、新たな開店など、コロナ禍を通じての経験には、なんだか特別な思いがある。

そうさんは、以前保育士として働いていた。
新卒の頃受け持った当時の子供たちが、僕と同い年だそうだ。
以前から、その年齢差でこの距離感で仕事ができるなんて普通はありえないよな〜なんて話したりしていた。
そうさんは、そんないつまでも子どものような立ち位置で関わってきた僕にワンマンという選択肢を与えてくれた。
甘ったれがちな僕の弱さも理解した上で背中を押してくれたのかもしれないと、終わった今では打診の意図に理解を寄せることができる。
そうさんが鍛えてくれたことによる5年間での伸び率に期待をしてくれたのかなと、今では少し自分を肯定できる。
その期待には十分に応えることができたのかもな、と安堵している今日この頃である。

そうさんは、僕にとってもはや恩師の1人だ。
辛い時期を支えてくれた。
余計なことを言わずにいてくれた。
小さな僕の考えを尊重してくれた。
育ててくれて、自信を持たせてくれて、励ましてくれて、背中を押してくれて、憧れの人に会わせてくれたそうさんは、僕のGolden Ageの立役者だ。

僕はこれから新たなGolden Ageを築いていかねばならない。
迷ったらこのワンマンライブを思い出したい。
こんな形の幸せはきっと簡単には味わえない。

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