山田町と「新しい町」⑤

「『新しい町』はまさに被災地山田の歌」と話す野田権右さん

 町側のメンバーはカラオケボックスで2回ほど練習しただけ。当日は直前にタエちゃんがソロの順番を確認したぐらいで、ほとんどぶっつけ本番だった。地元バンドの一員でギターを担当した野田権右(けんゆう)さん(42)は「ギターをやってて、本当によかった。聴いてるみんなも一体になって、あれこそが音楽なんだなって」と振り返る。

 トロンボーンを吹いた阿部基(もとき)さん(39)は、震災からほぼ半年後、町のアマチュア演奏家らに声を掛け、「山田吹奏楽団」を立ち上げた。「支援の方々に外から元気をもらった分、地元で、内から元気になっていかねば。音楽は人を元気にできる」

 中学、高校と吹奏楽部に在籍したが、社会人になってからは疎遠に。楽団結成で、押し入れの奥で眠っていた楽器を13年ぶりに引っ張り出したという。町の高齢者施設などを慰問する活動を続け、2015年秋には初の演奏会を中央公民館で開いた。「新しい町」セッションに参加した金管奏者はみな同楽団の所属だ。

 阿部基さんは「人を元気にできる」音楽の力を信じている

 野田さんも、阿部さんも、生まれ育った町が津波の濁流にのみ込まれるのを目撃した。

 阿部さんは津波の直後、船越地区長林で経営する理髪店のがけ下の海で助けを呼ぶ声を聞きつけ、居合わせた警察官らと山田湾内を漂流していた人々をロープで救出。そのうちの40代の男性1人を自宅に招き入れ、真夜中、一緒に2階から町の中心街を眺めると火の海になっていた。「まさに地獄でしたね」。自宅はぎりぎりで浸水せず「感覚的には被災者じゃなかったから、とにかく誰かを助けなきゃと思った」。開いている商店で菓子や飲み物を買い込んでは、避難者に配って歩いた。

 野田さんはあの日、夜勤を終え、家々が海沿いに張り付くように立つのどかな漁村、大浦地区の自宅に戻っていた。津波で9トン級の船舶が防潮堤を軽く乗り越え、集落はバリバリとすさまじい音を立てて破壊された。地元消防団員として、屋根に取り残された住民を助けたり、けが人の応急処置に当たったりした。勤め先の高齢者介護施設は全壊。同じ社会福祉法人が営むオープン直前だった同種施設は無事で、介護が必要な被災者を受け入れる「福祉避難所」となり、ケアマネジャーとしてその管理・運営に尽力した。

 崩れ落ちる町を目の当たりにし、喪失感にさいなまれながら、それでもこの町で生き続ける2人にとって、2014年のライブで経験した「新しい町」は「まさに被災地山田の曲だな」(野田さん)と強く思わせるのに十分だった。

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