ネドじゅんさんの「左脳さん、右脳さん。」を読んでのメモ。 源の巨大な意識体・エネルギー(本体)から派生した全ての生命体。本来どんな生命も源と繋がっていて、切り離されることはない。 左脳は思考や判断、コミュニケーション・過去や未来を担い、その源との接続を断ち切ってしまう(チョキーン!)。だからこの左脳の思考を止めて、右脳(身体や直感)に従い源と繋がる。そして私たちがやることは、ただ「望むこと」。それを源が叶えてくれる。私は源の機能意識であり、それに気づくとき私という主語はなく
ショーゲンさんのブンジュ村での教えが書かれた本を読んで、自分にとって大切なエッセンスをメモ。 抱きしめるようにして話す 相手をハグするように包み込むように話す。 お腹いっぱいになったら歌う 嬉しいことがあったとき、歌い踊る。気持ちをちゃんと体で表す。 仕事を愛する 自分の仕事にやりがいや誇り、喜びを持つ。やりたいことを夢中でやる。そのために生きている。 残業しない 自分の休息を削ってまで働くことは恥ずかしいこととさえ思っている。諦めることが幸せ。 自分が自分の一番の
私たちはこの肉体を神様から預かり、 その大いなる存在といつだって繋がっている 自分がしたこと思っていることが返ってくる 突き抜けられないストップがかかるようなこと 嫌な気持ちになること なんでその出来事が起きるのか 何を思いこみ、何が私をセーブし足かせとなっているのか 理解して外していく 幸せは青天井 なんでも望んでいいし、私たちは許されているし愛されている もっとエネルギーを軽く軽く軽くしていく 心配する必要はない大丈夫だから 全てもっともっと受け取っていい 足かせ・
何かを望むとき、あれが欲しい、こうなりたいと、 現実的な外側の結果のみ望んでしまう。 そのときの私はどのような心の在り方で存在しているか? それを手にすることによってどんな感覚を感じていたいのか? その感覚をセットする。それが望むコツだ。 全てにおいて、自分にとって「できない」「無理だ」という重い感覚は、神の視点からは外れている。 全てにおいて「できる!」「簡単だ」という軽い感覚になっていけば、神のエネルギーとなり、ストレスも無く実現していける。 できた時、どう自分が感
手からすべてのものが生まれる。 手にはふしぎな力がある。 私の手にはものすごいパワーが込められ、手からパワーが発せられている。 私の手が生み出す作品には祈りや癒しのエネルギーが満ちており、 それに触れた人はしぜんと癒され、笑顔になり、 何か大切なことを思い出したり、心が震えたりする。 生み出す本人も喜びが溢れ、生み出されたものに対して とてつもない愛と感動を覚えている。 それが私の活力となり、さらなる創造へと拡大していく。 水面に落ちた水滴が輪を描いて波紋となるように、
日本人の精神性 忘れてしまった大事な部分に 今を生きるヒントや豊かさがある それにふれると感動する=私の中の真実 あらゆる事柄の ストーリーや歴史 目に見えていない部分を知ることで 過去から現在へ点が線で繋がり 今あるこの景色に感動・感謝したり 当時に思いを馳せて神聖な気持ちになったり わくわくしたりリスペクトが湧いたり 今の見方が変わる とくに昔は思考ではなく、自分の内側の感性を信じ(自分とつながって)、手で生み出されたり表現されたものが多いから、そういう「心」が籠
私は私の味方だ 私は私を全肯定する 私は愛と太陽の女神だ 私の心の安堵感、ふるえを全て 自分のパワーへと変えていく 嫌な現実も全て望みへと転じさせ それすらパワーへ変えていく 思い込みや抵抗は取っ払い、自分の心の声に従う 私が選ぶその道が正解だ 私がご機嫌であることが 世界に調和と平和をもたらす 歓喜で心が満ちると、溢れ出し、 世界へ広がっていくのだ そして私を守り支えてくれる 心から信頼しあえる仲間が現れるだろう 私が与えるものに感動し、目覚め、 感謝の声は鳴
何千何百年前にもその時代を生きた人がいて それぞれの「人生」という物語がある。 私が今を生きているように、その時も今があった。 だれしも両親がいて生まれ、幼少期を過ごし、勉強したり遊んだり、働いたり、結婚したり、こどもができたりして、それぞれの人生があった。 そうしてまた次の代へと命のリレーがつながれ、今生きている人たちがいる。 歴史の上に今がある。 道半ばで死んでしまった人もいるだろう。 生き延びた人が命を繋いでくれたおかげで、今わたしは存在する。 そしてだれもが
つねに「今」しか存在しない。 「今」の連続が人生になり、「今」というそのフィルムは切り替えられる。 自分への自己嫌悪や他者への罪悪感はまったく必要ない。 人それぞれの評価や価値観があり、 批判されることもあるだろう。 また自分の作品や、自分の行動を批判されたとしても、 それは自分という存在の価値には影響しない。 いつだって、何があろうと、私という存在は完璧だ。 私が神で世界の基準である。と自分で決める。 外の評価に反応して右往左往していたら自分の力が弱まるだけだ。 弱
つねに目や耳は、知らず知らずのうちにたくさんの情報にさらされている。 意識的に情報をシャットダウンしてみる。 自然に身を委ねたり、瞑想などで無の、沈黙の時間をつくる。 フル回転している頭を鎮め、体の感覚に意識を向ける。 すると自分の中から、必要なもの、大切なものが見えてくる。 私の内側の声に耳を傾けて、私が見たいもの、聞きたいものだけを選び取っていこう。
私の目指す星。 そこを見失わずに、行く道の目印にする。 なにかトラブルやうんざりするような出来事も 私の映画のワンシーンでただ起こっていること。 決して被害者にならず、自分を軸にして、だったら自分は今どう在りたいのか、何を選ぶのか、何を望むのか? その視点に立ち、自分の力を思い出す。 ひとつひとつ、今のベストを尽くしながら、私の星を目指そう。 バカにされようと理解されなかろうと、呆れられようと批判されようと、自分を信じて諦めることはない。
何かを生み出そうと、達成しようと行動する過程において。 これで大丈夫だろうか、全然できていない 自分はダメだ力が無いという前提だと、自分に自信がなく、人に正解を求め、人と比べて自分にないものばかり見てしまう。 だから人からの意見やアドバイスがダメ出しや否定のように感じ、自分で自分を傷つけて、そうだもっとこうしなきゃ、こうならないとと焦る。 馬力でなんとかなっても、他人軸でいると、過程はまったく楽しめていないし、何かを達成したり完成したとしても、心から喜べない。 そうでは
歳を重ねて、自分の置かれる立場や環境により、その時々に悩みを持つ。 私には「ない」ものもあるが、今、自由に好きな場所へ出かけたり、買ったり、食べたりできる体や環境を持っている。 逆に私には「ない」ものを持っていて、「ある」ものを持っていない人もいる。 「ない」ものを見て悲しむのではなく、たくさんの「ある」ものに気が付けたら本当にしあわせだ。しぜんと感謝が湧いてくる。 人生には限りがある。誰しもさまざまな形で人生の幕を下ろす時がくる。生きている人の胸には、自分の人生に交
嫌な現実にフォーカスしてしまうとき。 広い高いところから見下ろしてみる。 それは、人生というひとつの物語のワンシーンにすぎない。 これからの未来は私が創ることができる。私の人生は今後こうなっていく。 そのための今があり、辛く苦しいことも、長い目で見ればたいしたことではないのだ。 そんな私を無条件に見守ってくれている愛してくれている存在がいる。 その視点を思い出す。 何があっても大丈夫だ。 希望の光を見失わず、希望の灯を絶やさず、そこに向かって歩んでいこう。
日々口にするものが人の体をつくっている。 毎日は難しいけれど、なるべくていねいに心を込めて、料理をしよう。 野菜を育ててくれた農家の方、食材の命に感謝して味わおう。 心静かに、ひと口ひと口よく噛んで大切に味わい、栄養を吸収しよう。 体の内臓や筋肉、細胞は、24時間休みなく働き、私を支えてくれている。 目には見えないけれど、栄養を取ることで、それらの活動をサポートしてあげる。ほどよく体を動かして、ストレッチしてのばしてあげる。また手を当ててさすって労わることで、優しさと感
問題とは、”頭”に存在するエゴ+未来がひっついたとき。 間に合うかな、怒られないかな、あれで大丈夫かな、何か変なこと言ったかな、だめな奴と思われてないかな、こうなったらどうしよう…… 自分を厳しく見張っている自分。未来への不安。大暴れするエゴ。 まずそのことに気が付いて、深呼吸をする。 お腹から吐いて、吸って。頭から”腹”へ、「今」に意識を戻す。 書いて整理することも「今」にあるために効果的だ。 すると問題がしぜんと解決したり、問題を解決するためのアイデアが湧いたり、