こころが傷つくということ

こころは目で見たり手にとって触ってみたりすることができません。そのため「こころが傷ついた」と言った時に、それがどのくらいの深さと広さがあり、どのような質の傷なのか、周りにいる人にも傷ついた本人にも実はよくわかりません。けれども、目で見ることができずに手で触ることができないからといって、こころが傷つかないわけではありません。私たちはこころが傷ついたということを体感として「そういうことはある」と納得することができます。


もしこころの傷が見えるものなら、例えばレントゲンに映るとか何らかの物質的な数値として検出できるとかですね、もっと話はシンプルです。周りの人も傷があることをより理解しやすくなりますし、本人も「傷があるんだから仕方がないな」と納得できることも増え、落ち込むことや不安を感じることや体が自分の思うように動かないことを「自分の努力が足りないんだ」とかは考えずに許せることも増えるでしょう。知らずに、あるいは故意であっても誰かを傷つけることは減りそうな気がします。傷や病気がそこにあるのだと納得することが、今よりはより簡単にできますよね。


けれども残念ながら、やはりこころの傷は目には見えません。現実の血が流れることはなく、どれほど苦しくて動けなくとも、少なくとも外から見た限りで言えば、傷や病原菌のようなものは見あたりません。これはとても苦しいことです。そこに苦しみと痛みと不安があるのに、目に見える傷がない。傷がないのに痛みがあることをおかしいのかもと思い始めると、すごく不安になるような気がします。傷がないのに動けないのかもと思うと、自分は怠けているのではないのか、疲れているふりをしているだけではないのかと、「自分を責める」方向に考えは行きがちです。


カウンセラーからは、傷ついた人にも、それを支える人にも、傷つくことは弱いことやサボっていることの証ではないと知って欲しいなと思います。カミソリが皮膚に当たれば、どんな人の皮膚でも傷ができます。それはその人が強いとか弱いとかではなく、シンプルにカミソリが当たったかどうか、当たり所はどうだったかという問題でしかありません。大切なことは、きちんとケアをして、痛みがあることを、傷があることを納得することです。痛みがないふりをしたり、わざと傷が無いようにして活動することは、傷を大きくすることでしかありません。目に見ることはできなくとも、こころだって体とそう違いはないのです。

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