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平忠度という生き方

平忠度(たいのただのり)。

先日、映画"perfect days"に関連して「こもれび」のことを調べている際に、始めに日本語として登場してくるのは、平忠度(たいらのただのり)が詠んだ和歌に出てくる「このしたかげ」が源流ではないかと、と知人に教えて頂きました。

平忠度は平安時代に、和歌に秀でた武将として知られた人物。

平清盛の末弟でもあり、「平家物語」で印象的なシーンで登場しています。

歌人としても優れ、藤原俊成に師事。

平家が京を追われる「都落ち」の際に、わざわざ危険を冒して京に戻り、俊成に自分の歌を託した。

俊成も意気に感じるものの、その後、朝敵となった平家側の人物として歌集に収められるのまずい、とは言え平忠度の歌は残したい、、ということで勅撰和歌集の「千載和歌集」に「読み人知らず」で収めらた。
(「平家物語」巻第七「忠度都落ち」)

政治の立場で翻弄された二人であっても「和歌」を通しての交流が後世にも伝わっています。

また、武将としても優れ、種々の合戦で活躍。一の谷の合戦では副大将の任にあたった。

しかし、源氏側の岡部清澄に討ち取られるが、その際には武将の名前が分からなかった。

討ち取られたの時、箙(えびら)に結びつけられたふみを解いてみると、この「旅宿の花」という題での一首の歌が詠まれていたという。

「ゆききくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひの主ならまし」
 (旅路に日が暮れ、桜の木の下影(こもれび)を一夜の宿とすると、花が今夜の主人なってもてなしてくれることであろう)

この和歌から、平忠度と判明。

敵、味方とも「惜しい大将軍を失った」涙を流したという。
(「平家物語」巻第九「忠度の最後」)

平家物語はなかなかのボリュームなので、
角川の「ビギナーズ・クラッシック」から。。

さて、平忠度を打ち取った源氏側の岡部忠澄は武蔵の国出身で現在の埼玉県深谷市に居住していた。

こちらも源義朝の家人として様々な合戦に参加して功を成している。

特に、一の谷の合戦で名将の平忠度を討ったことで一躍名をあげたという。

一方、岡部忠澄も武勇に優れているだけではなく、情深く、自分の領地のうち一番景色のよい清心寺(現埼玉県深谷市萱場)に平忠度の墓を建て供養したという。

ということで、先日、埼玉県深谷市の清心寺の平忠度のお墓にお参りしてきました。

左の柱は「史跡平忠度之墓」と記されています。

その日は、傘をさそうかさすまいかのようなしっとりとした小雨が降っていました。

清心寺の概要
平忠度のお墓は山門を入ってすぐ左手にひっそりとありました。

また、岡部忠澄の菩提寺でもある普済寺にも行ってきました。

JR岡部駅前にある「深谷市と武蔵武士」の解説看板に描かれている二人。
普済寺の山門。

普済寺でお参りしていたら、何かの後片付けをしていた女性から「先ほどまで夏祭りやってて余ったのでぞうぞ」とお菓子を頂きました。

「岡部銘菓:六弥太最中」。
岡部忠澄の正式名は「岡部六弥太忠澄」!

お菓子の名前はまさに岡部忠澄のお名前!

岡部忠澄殿から「雨の中、よく来たな。ご褒美をつかわす。」といって頂いたようで有難く頂きました。

岡部忠澄のお墓にもご挨拶。
岡部忠澄は一の谷の合戦だけでなく様々な武功をあげた方のようです。

藤原俊成が平忠度の和歌を「読み人知らず」として勅撰和歌集に採用せざるを得なかったような政治状況の中で、源側の武将が敵方の大将格の人物の墓を建て供養するということは、なかなかできるものではなかったのではないかと思います。

しかし、そのような政治的な状況を超えてもしっかり供養したいという岡部忠澄の心意気、またそうしたいと思わせる平忠度の人間的魅力があったのではないかと思いました。

そして、二人の名前は、「忠度」と「忠澄」。

「忠」でつながっている。

お互い平氏と源氏と敵方同士で命のやり取りをしたとしても、お互いの立場で「忠」を尽くしきったからこそ、そこに何か通じるものがあったのではないか。

改めて、「平家物語」はいろいろな人物が交錯する「物語」として面白いなあと今更ながら感じています。

こういう「ガイドブック」的な本はありがたい。
でも中身は詳細で充実した内容になっています。

機会を見つけて、今度は一の谷の合戦の「現場」に行ってみたいと思っています。

【「おまけ」のおすそわけ】
普済寺に行く道すがらパチリ。 

私、マンホール蓋マニアではありませんが、
深谷市のふっかちゃんのマンホールなので思わず撮ってしまいました。


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