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「ずるい」という感情。

「佐藤くんはいいよね、性同一性障害っていうネタがあって、講演とか呼ばれてさ。」

29年間生きてきて、性同一性障害で良かったと思うことなんて一度もなかった。元から男に生まれていれば…と何度思ったことか。
性同一性障害であることを自分自身が受け入れるまで、25年。いや、今だって完全に受け入れているわけじゃない。心のどこかで「普通」を求めてしまっている瞬間もある。

きっとそれを言ってきた人は、講演をしたり大学で授業を受け持っていることを「羨ましい」と思っているのだ。その根本にある“そもそも普通に男に生まれてたらこういう活動はしていない”という部分は差し置いて、現状だけを見てそう言っているのだと思う。
「じゃあオナベに生まれたかった?」と聞いたら「それは嫌」と言われた。そりゃそうだ。僕だって次生まれる時は心と体が一致していてほしいと願っているし。

これに関して相手を責めるつもりはないし、今の活動ができていることはありがたいなとも思うけれど、僕はできれば普通に生まれたかった。

「羨ましい。」その感情は誰でももちうると思うけれど、それが「ずるい」に変わってしまうと、少々厄介だ。
ずるいという感情は妬みや嫉みに繋がる気がしている。

一度、障害を持つ人に対して「ずるい」という感情を抱いている人に会ったことがある。
福祉サービスを利用していることがずるいと感じるというのだ。
その人が言っていたままを書くと「いいですよね。誰かに家事やってもらえて、年金ももらえて。何もしなくてもいいなんて羨ましいわ。」というのだ。」

あぁ、この人は疲れてしまっているのだろうなと、思った。

誰かに甘えることも、手を抜くことも許されない環境に身を置いてしまっているのだろう。
家に帰れば自分が家事をやらなきゃいけない状況。
自分が働かなきゃ生きていけない状況。
常に何かをしなけれないけない状況の中で、この人は頑張っているのだと思う。

「いいんじゃないですか?◯◯さんも、誰かに家事お願いしてみたら。」
「家事代行は高いからね。だったら自分でやるわ。」

「自分でできる、ってすごく幸せなことなんですけどね。」
「毎日やってたら、幸せだなんて思えないわよ。」

「そういうもんですかね。」
「そうよ、そういうもんよ。」

「僕、作りにいきましょうか?カレーとか。」
「じゃあ私が倒れたら、お願いね。」

「倒れるの、辛いですよね。」
「そうね。」

「倒れるまで、頑張らなくていいんですよね。本当は。」
「そうね。」

そんな会話をした。車の中で。

誰かに対してずるいという感情を抱いている人は、頑張っているのだ。
もう頑張りたくないって思ってしまうくらいに、頑張っているのだ。

自分が受けることができないサービスを受けている人が、羨ましく見えるくらい、頑張っているのだ。


確かに、ズルしてる人っている。
汚い手を使っている人もいる。

でも、そうじゃない人のことを「ずるい」というのは、違うなと思う。


もっと気軽に「助けて」と言える世の中になればいい。
誰かが疲れてしまっているときに、手を差し伸べられる余裕がある社会になればいい。
頑張らなくても生きていける社会になればいい。

そうなれば、いいな。


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