見出し画像

日記らしい日記(とマタイ福音書のこと)(9/14)

前の日付の②(僕の勉強法)、③(カタリ派とフランチェスコ、インノケンティウスⅡ)は気が向いたら適当に書く。②は好きなことしかやらない、というのが鉄則だ。③は自分自身の秘匿したい心情だ。今、書くべきことじゃないし、つまらないことだ。
②に関して云えば、学生時代から今の今まで、本当に嫌いなことは全くしなかった。勉強なんて大嫌い。したいことしか勉強できない。な、なんとチャイルディッシュな…。(中学校の勉強は、自分では沢山していたつもりだが、姉から見ても親から見ても、全然していなかったようだ…。たしかに、家では一週間に一時間もしていなかったような気はする。そのくせ成績はそこそこ良かったのは超常現象である…。)(高校はもっと酷くて、授業にすら出なかった…。出席日数で留年しそうになった。でも世界史だけは成績が良かった…。)
大人ってなんだ?と思う。成熟した大人は、いない時代である。そして今や、自分が大人と云われる年代だ。(しかし童顔であるという、個人的条件を加味すると、複雑極まりない…。)
ある程度の年齢になったら、自分の顔に責任を持て、という。自分の顔が好きとか嫌いとかいうことではなく、成熟した人格でありたいという姿勢が「大人」の条件だと思う。子もおらず、自分自身が子供のようであり、なんとかかんとか生き抜いてきた僕のような人間にとって、これで貫録があったらそれこそ、超常現象だろう。多分、今生は家庭は持てまい。幼過ぎる。けれども、今の時代の若者の呻吟を知って、なお僕は幼くありたいのだろうか?親のような大きな存在にはなれないと思う。(それこそ、江原さんは大きな、親のような存在だった。)けれど、年の離れたきょうだい、おじさんにはなれる筈で、僕が目指す「大人」の落し所はそれ以上、こんな未熟な自分では望めないと思う。我乍ら、ギャップが酷い。大人、というか仙人のような智のあることを書き、小学生低学年のような悪ふざけも大好きである。結婚したら、少しは違うと思う。形はどうあれ。が、低収入…。貧乏…。ヒモにでもなるか…。い、いかん、「大人」はどこに行った!!(そんな訳で、独身を貫くはずである。独身の在り方でいえば、江原さんの「ひとりの法則」という本はもっと自家薬籠中の物とせねばなるまい…。)
僕は独身の在り方で「大人」を示せるようになりたい。これとて自己卑下は禁物。これも一つの立派な在り方となる、志次第で。
おお、なんだか日記らしい日記になってきた!!こうでなくては!!

ついでにやっぱり③もチョロッと書く。カタリ派はアルビジョワ十字軍で滅ぼされた、十字架を嫌う異端のクリスチャンであった。僕は彼らを尊敬して止まない。インノケンティウスⅡはその時の教皇だ。はっきり言って、邪悪だと思う。その時代、フランチェスコもいた。彼は教皇に会いに行っている。すんなり僕はフランチェスコを尊敬できないのは、こんな背景がある為だ…。カタリ派の精霊を僕は、初期キリスト教徒同様に尊敬する。愛する。
焚刑にされ、縄が切れた時、会衆を祝福したカタリ派もいた。カソリック(正統、の意味)の聖人の中に混じったとして、これ程の人は中々いない筈である。刑に処され、大衆を祝福する。
僕はもしかしたら、これはイエスもしたことではないかと考えた。
カタリ派は新約聖書の研究から十字架を廃し、様々な尊敬を得るような事を行った訳だから。
ゴルゴダで、イエスが人格が変わった様に叫ぶのは、確実に奇妙なことだ。「神よ、神よ、何故私をお見捨てになったのですか?」とは、おそらく誤解である。カタリ派と同様、祝福や祈願と見なす方が絶対的に自然である。
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」とあるが、ギリシャで愛の神がエロースであることから、語源は同じと推察する。故、「愛が、愛が、彼らにありますように!!」等の言葉なら、絶叫が寧ろ相応しい。イエス程の人が、神への疑いを叫ぶ。しかも、最期に。マタイ福音書は、肝腎な所が変だと思う。
この直感は、揺らぎようがない。イエスへの愛。それがカタリ派の核心であると思う。十字架は残酷だもの…。
(だが、急いで付け加えると、聖なるシンボルであることも確かなことだ。
現実は複雑。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?