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自己犠牲、あるいは残虐の象徴としての十字架

十字架は言わずと知れたキリスト教のシンボルであるが、それには二面性がある。イエスの悪魔との戦いは荒れ野で終わった訳では決してなかった。人の心の中の悪心との戦いは十字架の上までも続いた。だが、最終的にはイエスは勝利した。復活によってか。私は違うと思う。イエスの勝利とは、侮辱され、磔にされ、槍で突かれ、囃し立てられ、酸い葡萄酒を飲まされても、決して民衆を呪わなかったことだ。自らを、神を呪わなかったことだ。ゲッセマネでの苦悶は、この苛烈な試練を予期してのことだったと私は思う。だが、この大きな戦いにもイエスは勝利した。悪魔は遂に、神の子を堕落させえなかった。心に入り込めなかったのだ。

その究極ともいえる勝利の全体像から見ると、聖書の記述には違和感を覚える。急に人が変わったように神になぜ見捨てたのかと叫んだり。これは初期キリスト教徒の感情的な主観が入り込んだ可能性が高いと思う。でなければ、ゲッセマネでの祈りも嘘くさくなってしまう。深い決意をしたイエスが、まるで人格が破綻したように叫ぶなんて!まるでコメディである。私はスピリチュアリズムの霊界通信の描写するイエス像を信頼する。ために聖書に疑義を挟むのだが、スピリチュアリズムを悪魔の教えであると言い、霊訓も霊界通信も認めずに、何故あのような矛盾と苦痛に満ちたイエスの最期を肯えるのだろうと思う。叫ぶことはあっても、イエスの神への信仰は揺らぐことはなかったはずだ。ゲッセマネと、復活したイエスの像を結ぶと、あの聖書の最期の記述は結んだ線上にはないのだ。だが、もうよそう。私はクリスチャンの鈍感さを詰るつもりはないのだ。ただ、聖書の不確かさを言いたいだけである。あれは二千年前の書物なのだ。

イエスは悪魔に勝利した。自己犠牲によって。これは空前絶後のことであるが、その後の人類の歩みをみると、依然として悪魔は人類を支配しているように見える。それは人類の悪魔的行為、種としての自殺へ向かう刹那主義によっても明らかだと思う。イエスは人類の原罪を贖ってなどいない。寧ろイエスを磔にしたということが原罪のようになっている。そう、私たち人類がイエスを十字架につけた。そして、今もその心象によってイエスを何百、何千回となく十字架につけている。

イエスから見たら、十字架は自己犠牲と勝利の象徴であろう。だが、悪い心から離れられない私たち人類から見たら、十字架とは利己心と残酷の象徴なのである。この二面性をキリスト教徒はどれだけ意識しているだろうか。いや、キリスト教徒でなくとも。私はイエスを畏き存在だと思う。偉大な存在であると。けれども、十字は切れない。そのシンボルの残虐性を思い、次に容易く聖なる象徴を用いることの畏れ多さを思う。自己犠牲を聖化するまでに至ったことの重大さを思う。イエスが罪を贖ってくれたって?

私たちは自分の心次第で十字架を担うことになる。また、自分の心次第で、イエスを磔にしている。祈るように生きるか、呪うように生きるか。それは私たちが愛を実践するか否かにかかっている。十字架とは、そのシンボルとは、まるで諸刃の剣のようなものだ。正しく私たちは悪を恐れなくてはならない。それはイエスを磔にすることだ。

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