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死者へ捧ぐ

あてどなく始めるこの文章を、どう説明すれば良いか…。これは感情の高まりを示して充分なのだが、その経緯を書いていては心象が対象とするものを見失ってしまう。この心象は貴いものだ。それは求道であるから。求道すでに道であるというのが事実ならば、これは道に関する文章である。この心象スケッチがどこに向かい、着地するかは分からない。けれど、忽然として起こった心象の美しさを信ずる。
私はこの世界に貢献しようと思った。自性の醇化によって。己の成長によって。そして、この動機が正しいものであるならば、その願いは成るだろう。成就するだろう。そして、この動機が正しいものであるならば、その願いの瞬間、なんらかの変化は世界には訪れている。そう、この世界とは、私もそうであるように、神の顕現であるからだ。世界とはその意味で一つである。全てが神の表現であり、小さな石ころにさえ神は宿る。全ての魂の奥には、神が鎮座しておられるのだ。全てが一体の魂である。これをスピリチュアリズムでは「類魂の法則」という。神道の神観は決して前時代的なものではない。近代スピリチュアリズムと親近する。寧ろ、恐るべき経験知と言えるだろう。
全てが一体であることを感じる時、私はこの類魂の法則を理解している。私は辺縁から、逆方向から神を朧気にでも理解しようとしている。神とは霊的宇宙の中心であり、その神の浄化向上の意思の結果の分霊と創造によって、霊的宇宙の辺縁に私たちがあり、物質界がある。私たちはこの意味で未熟な神なのである。神の荒い粒子なのだ。浄化向上を私たちが願う時、世界は美しい。それは神の波長に近づくから。世界に神を見るから。
以前、テレビで哲学者と作家が、善と美について話し合っており、「善と美の互いの結びつきを見つけるのは難しい」と言っていた。それはその通りだ、近代文明に毒された、無神論的な視点では。私は現代的な哲学者も作家も、無明であるといたく知った。暗闇の中で玩具をこねくり回しているだけなのだ。だが、私たちスピリチュアリストにとっては真善美が一体であることは自明なことだ。真善美とは神の側面である。真善美の奥には神がおわします。であるからこそ、私たちは真善美を行う時、満ち足りており、欠如感も虚無感も感じない。ある自殺した思想家は、物事をどんなに考え究めて色を重ねていっても、白色浮出の様に究明できないものが残る、と虚無を主題とする書籍で言っていた。これを敷衍していくと、少年Aが生命の不思議を解剖欲に転換したように犯罪的心理に陥る。これは、近現代の科学者たちにおいても無自覚なだけで同様であろう。
私たちは明言しようじゃないか。高らかに、明言しようじゃないか。霊的思想のない学問は悪魔を生むと。自殺しかり。ヒューマニズムの仮面を被った自殺、つまり安楽死しかり。人文しかり。科学しかり。神のない学問は片輪なのだ。不完全で視力がないのだ。これでは、人類が迷ったとて当然ではないか。袋小路に呆然とし、それでも科学がなんとかしてくれると思うている。科学信仰も大概である。
そして、大急ぎで付け加えよう。宗教にも、世の大抵のスピリチュアルにも神はないと。スピリチュアリズムが真理を掴んだのは、科学が霊を思考したからである。物質と霊と、双方に意味があるのである。思考に思考を重ねていっても、この世界では空白が白色浮出のように残る。さあ、そこに霊的な愛を注ごうではないか。その空白こそ要である。本当に大切なものは目に見えない、これは事実である。不可視であり、聴こえもしない。霊的な愛によって、霊的な視力が生ずる。聴力が生ずる。霊的な思考も理解されよう。この世界の荘厳は、ただの芽生えであることを知る。
私はこの文章を、亡き者に捧げたい。彷徨える死者に捧げたい。(また、死んでいるように生きている現代人に。)あなた達死者は見ることができる。聞くことができる。感じることができる。けれども、地上世界との感覚のあまりの変わらなさに、見ず、聞かず、感じない。死というものは、肉体から霊体への移行に過ぎず、霊魂こそが本質なのである。死した後も感覚があるのは当然過ぎるほど当然なことなのだ。
私たち、現世の者が思考し、理解することは死者にも伝わる。ならば、私は徹底して真実を究めようと思った。私が真善美を考究することは、あの世界、霊界への貢献にもなると思った。それが故の文章であり、心象スケッチである。全ての御霊の幸いを願い、筆を置く。

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