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「子ども」と「子供」について(9/13)

「ここで終わるべきノートである」とか保田與重郎のマネして書いても、様にならないし、ギャグで終わったら流石にマズイと思う。
そんな文章も幾つかある筈だ。
もう三つ程、書くべきことはある。
①「子供」と僕が表記する理由(「子ども」ではなく。)
②僕の勉強法
③カタリ派とフランチェスコ、インノケンティウスⅡ(光と闇、智と純真と無知)
この三つは書かねば、自分で自分を打たねばならない。
今、コーヒーを飲み乍ら書いている。甘い、甘いコーヒーである。これをブラックにしなければ、きっと気が鎮まらないであろう。といっても、分離するのは不可能、時既に遅し、である。なので全部飲んで、別にブラックのコーヒーを淹れなければならぬ。とても濃い、カフェイン強の腹黒いコーヒー。まあ、いいや。美味しかった。(ブラックは別にいらない。)
窓の外では秋の音が聞こえ、夏の暑熱を冷ましてくれるかのようだ。僕は虫のに、A市への想いを冷まそう。
こんな俳句が出来た。

鈴虫の誰そ彼の窓隔つ夏

不出来かもしれん。僕は詩人にはなれん。俳句は詩人でないと作れん。短歌もそうだが、俳句はより一層そんなである。右手と左手くらい勝手が違う。もう、情熱とか愛は俳句には持てない。自分の短歌の説明臭いとこはよく知っている。だが、この俳句は短歌にするとどうなるだろう?

誰そ彼の鈴虫のの淋しくてとほ白きかは熱き海やも

うん、やっぱり僕は短歌が好き。俳句は難しい、好きになれぬ。古い言葉はやっぱり短歌にそぐう。
閑話しすぎである、休題、休題!!
①もう寝る時間が近いので、サラッと書くと、昔の日本人てニンベンが好きなんだよね。「子供」の「供」は変な動機の微塵もない、却って清いものを感じる表記なんだ、僕にとっては。「ども」の方が僕に異和を起こさしめる。この点、星新一も同じことを書いていた筈だ。(中学の記憶が確かなら。)彼も「ども」はイヤって書いてた。それは、本当に同感なんだ。江原先生は「供」を「おそなえ」と解したようだが、古典好きからすると、それは誤解でしかない。申し訳ないが、合わせてしまったのは、自分でも付和雷同だと思っている。先生は「真・善・美」と表記もするが、僕は「真善美」の方が良いと思う。脳ってやつは見た目のイメージの方が早いようだから。間の点があると、理解がノロクなる。一体感も薄れる。「美」は神速だ。「真・善・美」より「真善美」の方が遥かに速く、美しい。TPOもあり、釈迦に説法ではある。だが、先生は歌の人であって、文字の人ではないイメージが強いのも、僕の印象であるのだ。僕は美しい絵の前からは動けなくなる。かなり長い時間。泣きすらしない、動けない感動を僕は美術から感受する。初めて対面する学芸員の方に、美術館で質問し「流石ですね」と云われたことがあるが、このエピソードは自分を誇るでなく、真理への供物として捧げるのみである。美やイメージは速い、早い。そして印象も強く深い。文字は制限であり、言葉も制約である。しかし、それ故の美しさを産む、パラドキシカルな容器ともなる。(似た例として「絵の本質は額縁にあり」とチェスタトンは云ったが、それは制約のことだ。)
歌は空気の振え、空気の動き、祈りが始源であるから、伝えること、間を取り持つ、中間的意味が強く出る。(役者的。)言の葉はαでありΩ。故、文字の無い神の文学も成立し、美しい制約の文学とて成り立つ。
(言葉を主とすると、)歌は舟であり、法である。始源であり、終末である。
真善美は永遠であり、時でも空間でもない。物ではなく心であり、事物一切である。言葉足らずだが、文、絵、音、各々個々のものをつなぐエーテルが神であり美だと思う。
(無礼・失礼極まりないことを、謝し、終わる。消灯時間であり、大分脱線したが、目指す物、一つであると信ず。)

令和六年睦月追記
はっきり言って、論旨から論理からなにから、滅茶苦茶のハチャメチャである(ような気がする)。急いで書いたのもあるかもしれない。

歌と書き言葉の違いを述べているが、書いた時の景色がもう見えない。読みにくい。ごめんなさい。

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