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江原スピリチュアリズムの考察(2017年のメモより)

仏教もキリスト教も世界の救済に失敗した。
それは真実の説き難きを示す。
ブッダは仕事の余りの困難に寂滅へ向かおうとして制止され、キリストは困難を省みずに破砕した。
仏教はそもそもが人臭くまた優しく、キリスト教は愛に満ちだが苛烈である。
宗教は団体になったから失敗したのだろうか?
それは一理あるが、団体となる要因がそれぞれあった。
未熟だから団体となる。
どちらも成熟した思想ではなかったのだ。
スピリチュアリズムはどうであろう?
スピリチュアリズムの始まりは科学者達の霊魂の研究による。
人間界に教祖を持たないのである。
科学は神を知ろうとした。
スピリチュアリズムとは言わば究極の知性主義である。
江原啓之氏のスピリチュアリズム(以降、江原スピリチュアリズム)はキリスト教にも仏教にも似ているが、どちらとも本質的に異なる。
当たり前である、宗教は信じる事から出発し科学は疑うことから真実を明らかにする。
霊魂を疑い切れなくなった真摯なる知性が、信じる事に転ずる。
それは世界の観察に基づいているが故に、強固である。
シルバーバーチ原理主義とでも言うべきスピリチュアリズムがある。
彼らが間違うのは信ずることから始まっているからだ。
江原啓之氏は鋭敏な霊的感覚を持ちながらも、疑い抜いてスピリチュアリズムを知るに至った懐疑主義的な人である。
そもそもの始まりからして、科学が起源のスピリチュアリズムとは親和性があったのだ。
仏教もキリスト教も世界人類の救済に失敗したと書いた。
だが、無意味であるとは一言も言ってはいない。
その失敗から学ぶべきであると僕は強く思う。
懐疑と信仰は両極であるが、双方が双方の母体である。
陰陽、光と闇の様なものである。
江原スピリチュアリズムにはこの両極性がある。
江原氏の指導霊は僧侶であるが、西洋の思想であったスピリチュアリズムをその江原氏が説くことも意味深いものがあると思う。
「スピリチュアルメッセージ」は江原氏の指導霊による霊言であるが、この書籍は江原スピリチュアリズムの原液(江原氏が言う所の米本。氏は重湯から米まで書き分けている為の表現)とも言うべき本で、光と闇、大我と小我、諸々の両極により生きること、死すること、愛することの真理が縦横無尽に、懇切丁寧に語られている。
この世界は恐ろしいまでに真剣な世界なのだ、と宮沢賢治は語った。
その通りである。
だが、この世界は理不尽そのものであり、救いなどありはしない。
それは、「この世界」に視野が限られているからだ。
「この世界」の外側にある世界がある。
実は「この世界」は「あの世界」に内包されている。
この事実は、血の滲む努力によって詳らかにされている。
それは科学者達や、霊媒達の努力であり、もっと言えば霊的世界の住人の努力である。
その両者の努力の結合、結晶がスピリチュアリズムなのである。
疑い抜いて得た真理は、疑うことの出来ぬ人々には了知出来ぬ。
中途半端な科学者や、思考を欠く宗教者には絶対に了知出来ぬ。
鮮やかな色彩を知る者は、鮮やかな経験をした者のみである。
江原スピリチュアリズムは、平明である。
簡単明瞭であり、それ故に軽んじる人々は多いであろう。
だが、その怖いくらいに透き通った奥深い真理を感知する人々もまた少なくない。
「霊的真理」とは物質界の「真理」より叡智において奥深く、眩く輝くものである。
この不可解な世界を解き明かすのは、「霊的真理」以外ないと断言出来る。
解き明かすが故に、この世界(物質界)に明るい意味をもたらすからである。
スピリチュアリズムは叡智であり、江原スピリチュアリズムはこの世界のともし火である。
ウィリアム・ブレイクが言った、科学と宗教の結婚の様なものなのである。
宗教が失敗した世界の救済。
科学がもたらした世界の混沌。
なんのことはない、両者は影絵であったのだ。
二つの影を辿ると、同じ一つの像であった。
本当のスピリチュアリズムとは、ただそれだけのことである。
その像のデッサンにおいて、江原スピリチュアリズム以上のものは現在の世界にはない。
その平明さにおいて、その愛と、真剣さにおいて。

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