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スピリチュアリズムとは何か(9/9)

これは僕の命。
いつの間にか。
spiritualize(霊化・霊的浄化)という意味があり、日本語訳は至難であり、spiritualismはスピリチュアリズムとしか云いようがないらしい。(あえていえば、霊的浄化思想、といった所か?)
元々は霊的な事象を科学者達が解明しようと調査した所、どうにも否定しようがなくなった、という経緯があり、霊的事象、つまり霊魂が存在するならば、如何に我々は生きるか?という問いへの答えとしての思想がスピリチュアリズムなのである。
よって、巷の科学的探究の歴史を知らない「スピリチュアリズム」「スピリチュアリスト」は詐術、詐称である。1848年以来、連綿と続いてきた真理への探究を無視しては、スピリチュアリズムは語れない。それらに無知な「スピリチュアリスト」は語として成立していない。
ゴーギャンの有名な絵のタイトルを思い出す。「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。誰もエビデンスを伴って説明できない。
誰も。
だが、スピリチュアリスト(正真正銘の)なら説明は簡単だ。あの世から来たのだ。この地上は行場、修行の場であって、行に楽を求める者はいない。簡単に云うと、この世はあの世がないと説明は不可能である。コインの裏は、表を知らないでは裏と気付けまい。正に「隻手の声」とはこのことだ。
この日本では江原啓之氏が草分けであり、代表的存在、というか、他に有名所はいない。大したものである。たった一人で、ここまで外国の思想を有名にしてしまった。だが、一人であって一人ではないのは知っている。顕幽の努力。頭が下がるのみである。
だが、名称は実はどうでも宜しい。精神、人格の向上があれば、宗教だろうが、哲学だろうが、文学だろうが、何だって良い。だがしかし、それらがなかった…。それらには人格の向上がなかった。
僕は気が付いたら、物心ついた時から精神的なものを求めていた。道を求めていた。一通り勉強し、読み漁った。変なものも、バカにし乍ら、行を行ったこともあった。故、気が狂った。気が狂った末に、スピリチュアル的なものを全否定した。だが、白色浮出のように、否定しても否定しきれない部分は残るのだ。その説明にスピリチュアリズムをあてはめた。ピッタリとはまり、その説明は否定しようがなかった。理論的にも、現象的にも。
現象的な例として云うと、憑依する霊は、首の後ろから出入りすると、江原氏は説明してあり、個人的にもそれは体験済みであった。そのようなものはほんの一例であり、もっと顕著な例もあるが、「個人的」体験と一致したということが大きい。
人とは見ても見ないし、聞いても聞かないものだ。ハイデガーが言っていたらしいが、理性は感情の上に成り立つもので、つまり、科学も意思や感情に左右されるものであるらしい。話をややこしくして申し訳ないが、科学と宗教は相補的なものであり、片方だけでは不完全なものだ。スピリチュアリズムはこの点、申し分ない。現実と理論がかみ合い、今や歯車は1848年以来回っている。
とはいえ、軽視と軽信。それなくば、現在の世界はもっと向上していた筈だ。発生したイギリスでは風前の灯火だ。日本とて、江原氏一人きりだ。真理とはかくももろいものか?否、僕は浄信の美を信ずる。その善なることを。それは真であるからだ。
僕の魂は美食家だ、不味い宗教、科学、哲学、政治、思想、残らず吐いてしまった。
清らかな信念でもって、清らかな空気をこの乱れ世に呼吸する。スピリチュアリズムの精霊に全幅の信。

些か冗長になってしまった。だがこれは僕の命だ。必要があれば、明日、もっと書く。

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