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僕が医療の中にいない理由

僕は鍼灸師として社会に貢献したいので、現代の医療の中では活動しません。
と学生の頃から言っていますが、友達や先生含めてあまり伝わらないことが多いので改めてまとめてみます。
(医療の批判ではなく、現代の東洋医学の振る舞い方についてです。)

前提として
テクノロジーの進化や取り巻く環境の変化によって物事の役割って変わりますよね。
そしてその変化していく立場を把握して時代に適応していかないと、
東洋医学や鍼灸も必要なくなると思うわけです。

絵画の発展

たとえば今の鍼灸業界は似顔絵で証明写真に対抗しているようにうつります。

絵画は19世紀まで肖像画としても栄えていたらしいです。
でも写真の登場と共に絵画に”本物そっくりに描く”という機能的な価値はなくなっていったとのこと。
どれだけ似ている絵を描けても写真にはかないませんね。

しかし、20世紀の画家は画家の主観を織り交ぜ、絵画にしかできない表現を探し続け発展しました。(詳しくはありませんがキュビズムとか)


僕たちの東洋医学も医学という名前がつくから医療を考えますが、今の社会を考えるともうすでに便利な”写真”が発明されています。

薬一つで治せる、病院に行って医師に任せれば体が治る、社会保障制度で安価に受診できる便利さ。
対して、受け手の主体性も必要で、高い負担額で、鍼灸院によってサービスが統一されていない鍼灸はその結果良い点もありますが、現代の医療の枠なら科学的な医療で十分ではないか思うわけです。


では東洋医学の価値はどう考えればいいのでしょう。

古典の解釈について

東洋医学の古典が書かれていた時代には科学的な医療もなく、機能的な価値が求められました。
そのため体の治し方はたくさん書かれています。
しかしその文字だけ見ても今の時代にフィットしにくいことも多いでしょう。
時代背景が異なったり地域性があったり、それ以上に確実に治せる方法があったり。

でもだからと言って古典が必要ないかというとそうではないと思います。
書かれてあるハウツーだけを見るのではなく、その言葉を通して何を考えていたのかという行間を読むことで現代の生活にも活かせると思うんです。

そこで古典を抽象的に要約して考えると、
自然の時間の中で生活する生き方や体質に合わせて緩脈にしよう(日本的か中医学的かで違うけど)という個性を尊重するなどの"態度"に価値があると思うんですよね。

そこで写真ではできない絵画ならではの表現を提示できるのではないかと。

鍼灸師の社会的な役割

少し口が悪いですが、
要は鍼灸師が機能的な価値で医療の文脈に入ろうと頑張れば頑張るほど東洋医学の魅力は薄れていくと感じています。

東洋医学の価値って別に針を使うことでも蓬を燃やすことでもなくて、
生き方を考える哲学の部分にあるのではないか。

とはいえ、これも僕の古典を読んでの一つの解釈だし、正解はないけど
少なくとも今の鍼灸師は時代を見てもっと豊かな解釈を持つ必要はあるんじゃないかな。


医療の文脈に固執せず社会に対して東洋的な哲学を輸出する。
それが現代の鍼灸師に任された鍼灸治療だと僕は思うわけです。

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