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ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』を解説する

同情の克服を、私は高貴な徳だと考えている。だから私は『ツァラトゥストラの誘惑』として、大きな悲鳴がツァラトゥストラの耳に届く場面を描いたのだ。同情が最後の罪のようにツァラトゥストラに襲いかかろうとし、ツァラトゥストラをツァラトゥストラ自身から引き離そうとする場面である。そこで自分を失わず、自分を自分の主人にしておくこと。そこで、自分の使命の高みを、いわゆる無私の行為に見られるはるかに低劣で、はるかに近視眼的な衝動から、きれいに守ること。それが試練なのである。ツァラトゥストラのような人間が受けなければならない、もしかしたら最後の試練なのかもしれない。

ニーチェ『この人を見よ』 丘沢静也訳[光文社古典新訳文庫]p.33

1. ニーチェ思想を整理する

ニーチェは隣人愛=同情を猛烈に否定する。無私の行為になぜここまで嫌悪感が表れるのか。目の前に困っている人がいれば、助けたいと思うのは健全に思われる。勿論、財産を投げ売ってしまうほどの宗教へのコミットメントから自己犠牲をしてしまうのは良くない。しかし、人間的な強さから、困っている人を助けるのは純粋に善い事に思える。

ニーチェが同情をここまで非難するのは、同情がルサンチマンに変化する性質があると考えているためである。そして、このルサンチマンはニーチェにとっては「死ぬほど危険」であり、強く逞しい生を肯定するときに最大の障壁となるのである。ニーチェ哲学の多くはこのルサンチマン克服のために展開されており、ツァラトゥストラの最終巻は同情に対して大声でノー!を突きつける主人公を描いている。

ニーチェは晩年、ツァラトゥストラの根本思想は「永遠回帰」だと語った。永遠回帰とは端的に言うと、今まで起きたことは来世でも永遠に繰り返される=必然だと思うこと。それは輪廻転生するインド宗教のモチーフであり、その本質はルサンチマンを克服するための直観である。それは仏教の悟りのイメージが近いだろう。ニーチェは仏陀から影響を受けていることを明言していた。晩年の著作においては「永遠回帰」を以下のように振り返っている。

それら(=ルサンチマン)を変えるよりは、それらを変えることのできるものとして感じるよりは、それらに抵抗するよりは、ましだったのだ。あの宿命論のなかで自分を揺さぶって、無理やり目覚めることは、当時の私には、死ぬほど悪いことだと思えた。実際それは、毎回、死ぬほど危険だった。自分自身のことをひとつの宿命のように受け取り、それとは「別の」自分を望まないこと、それが、そういう情勢のときには、偉大な理性そのものなのだ。

ニーチェ『この人を見よ』 丘沢静也訳[光文社古典新訳文庫]p.38

ニーチェ思想が奥深いのは、書かれている文体は攻撃的で過剰反応的に見える一方、その思想の核心は正反対のことを目指しているということである。その矛盾が、読むたびに言葉の意味合いを変え、一回性のある読書体験をもたらす。このような変化するニーチェを理解するには、一般的に「駱駝から獅子へ、獅子から子供へ」という過程を経ることになる。

「駱駝」が意味するものは、重い荷物を背負わされ、ひたすら砂漠を歩くイメージから外的な規範に服従する人を指す。社会の期待や既存の道徳に従順であり、重い負担を耐え忍ぶことを美徳と見なしている人である。彼らは自己犠牲と服従の精神で生きていると解釈される。また、「獅子」が意味するものは、伝統的な価値観や権威に対して反抗し、自身の道を切り開く人を指す。有名なキリスト教批判もこの駱駝と獅子の関係において行われる。

そして、ニーチェが最終的に目標とするのは「子供」である。「子供」とは、世界と一体になって無邪気に遊ぶイメージから、他律に支配されず、純粋に人生を愉しむ人を指す。ツァラトゥストラでは「大いなる正午」と表現される。正午というのはつまり物事に影がないということ、それ自体として光輝く世界観を指す。その「子供」はきらきらした世界に夢中であり、もはや世界が別様であったならと考えない。あらゆる可能性が現出することなく、出来事は必然性を伴うようになる。この必然性から「運命愛」が生じる。このような「子供」がニーチェの理想とする超人である。

俺は帰ってくる。この太陽といっしょに。この地球といっしょに。この鷲といっしょに。この蛇といっしょに。俺が帰ってくるのは、新しい人生でも、よりよい人生でも、似たような人生でもない。俺は永遠にくり返して、この、細大漏らさず、まったく同じ人生に帰ってくるのだ。ふたたび、あらゆるものごとに永遠回帰を教えるために。ふたたび、大きなこの地上や人間の、大いなる正午のことを話すために。ふたたび人間に超人のことを告げるために。

ニーチェ『ツァラトゥストラ(下)』 丘沢静也訳[光文社古典新訳文庫]p.164

2. ツァラトゥストラの核心に迫る

ツァラトゥストラには根本的な矛盾がある。それは「超人への道」は論理的に語れないものであり、語りえぬものを語る、という矛盾である。それがツァラトゥストラが難解である一番の理由である。ニーチェはシルヴァプラーナ湖畔の森を散歩していたとき、ツァラトゥストラの直観を得た。そして、著作を書き始めた頃、その直観を正しく伝えきれるか不安だった。実験的に執筆が開始された。ニーチェはツァラトゥストラの後半に至るまで、その矛盾を越えられないのでは?と危機に陥っていた。ツァラトゥストラはそのようなニーチェを投影している。その直観を理解するには身体を必要とする。どうすれば文章で伝えられるのだろうか。そのような試行錯誤を通じて、ツァラトゥストラでは難解な比喩表現が多用されることになった。

このように誕生したツァラトゥストラは理解することがとても難しい。多くの読者が途中で挫折してしまう。ここでは数々の難所をいったん飛ばして、ツァラトゥストラの核心に迫りたい。まず、一つ目の問いとして、「永遠回帰」と「駱駝」は矛盾するのではないか?を考えてみる。社会で生きていると少なからず苦手なこと、嫌なことを避けては通れない。その時、駱駝となって耐え忍ぶ。あまりにも変えられそうにない運命を悟り、駱駝に生まれたのだから荷物を運ぶことが必然的なものと理解する。そして、最終的に運命にはもう抵抗しなくなる。それはニーチェが述べた「自分自身のことをひとつの宿命のように受け取り、それとは別の自分を望まないこと」であり、「偉大な理性」である。しかし、これが偉大な理性であれば、いつまで経っても人は獅子になることができない。宿命に思えることに反発し、それを乗り越える必要がある。「運命愛」と「超人への道」は一見矛盾するように思われる。

もしくは、最初は獅子を目指し、獅子になれたら宿命を受け入れるものとする。しかし、現実的には完全な獅子になることはできない。例えば、部下の前では自由に振る舞う獅子であっても、上司の前では難しい。人生どこかで駱駝を演じなければならない。常に自由に振る舞い、かつ、破綻せずに生きていけるのは、とても幸運な一部の人々だろう。多くの人にとって「超人への道」は「絶えず獅子を目指す駱駝のレース」になってしまう。それは、現代社会において、一生懸命に受験勉強をして、就職活動をして、出世競争をして、気づいたら人生が終わっていた人々である。ニーチェの時代において、一生懸命に教会に貢ぎ物をして、来世で救済される称号を獲得して、救済されなかった人々である。「超人への道」は内在しない究極的なものを目指している点で、ニーチェが指摘するキリスト教の問題を等しく抱えていることになる。

この問題を保留してさらに次に進む。もし、あなたが幸運で比較的自由を享受できる人、つまり、獅子として生まれたとする。ニーチェの目指す超人になるには、子供のように世界を愉しむ必要がある。しかし、楽しむというのは自発的に目指せるものではない。それは楽しむフリをしているだけである。子供はある世界の乏しさゆえに発見の連続があり、世界に無抵抗に連れ去られるのである。それは偶然の出逢いによるものであり、自発的に行ってはいない。ニーチェの延べる「子供」を目指すということは、意図的に偶然を作るという矛盾を抱えている。偶然がなく、意図的なもの=予定調和しかない世界は光輝かないだろう。どうすれば意図的に、偶然的に、善い出会いを積み重ねられるのか。

ニーチェはこの「超人への道」を論理的に説明することの不可能性に気づいていた。それは直感的にしか与えられないものであり、再現可能なロジックは持ち合わせていなかった。ニーチェはツァラトゥストラの執筆を通じて、どうすれば「超人」を万人に教えられるか考え抜いた。結果、ツァラトゥストラが発明されたのだ。それは新しい文体であり、書籍というよりは、音楽的なものだと本人は言う。素晴らしい音楽が論理を超えて人の心を連れ去るように、素晴らしい文章によって、読者に「超人」を到来させようとするのである。

ツァラトゥストラという典型における心理学的な問題とは、つまり、これまで聞いたことのないほどにノーを言う者が、これまで世間でイエスと言われてきたすべてのことに対して、ノーを実行するのだが、それにもかかわらずどのようにして、ノーを言う精神とは反対の者になりうるのか、という問題である。もっとも重い運命を、宿命のような使命をかかえている精神が、それにもかかわらずどのようにして、もっとも軽く、もっとも彼岸のような精神になりうるのか――ツァラトゥストラはダンサーだ――、という問題である。

ニーチェ『この人を見よ』 丘沢静也訳[光文社古典新訳文庫]p.165

3. 最後の罪=同情の克服とは

ツァラトゥストラの最終章「しるし」では、彼を囲む動物たちがツァラトゥストラを祝福する。彼の足元にはライオン=獅子が横たわり、膝に頭をすり寄せ、彼に深い愛情を示す。この時、ツァラトゥストラは「獅子」から「子供」への移行を体験しており、周りの自然との調和を感じている。そして、それは永遠回帰のなかで理解されているため、短い時間なのか、長い時間なのかの区別がつかない。

「俺の子どもたちが近くまでやってきたぞ。俺の子どもたちが」――そう言ってから、ひとこともしゃべらなかった。しかしツァラトゥストラの心はほぐれていた。目から涙がこぼれて、手に落ちていた。それからは、もう何にも注意を払わず、じっと動かずにすわっていた。動物たちから身を守ろうともしなかった。鳩たちが交替で飛んできて、ツァラトゥストラの肩にとまって、白くなった髪をなでるように優しくつついて、あきることなく鳴いて喜んでいた。がっしりしたライオンは、ツァラトゥストラの手に落ちてくる涙をずっとなめては、遠慮がちに吠えたり、うなったりしていた。動物たちはこんなふうにしていた。こういう状態が長いあいだ、または短いあいだつづいた。というのも、本当のところ、地上にはこういうことを測る時間がないからだ。

ニーチェ『ツァラトゥストラ(下)』 丘沢静也訳[光文社古典新訳文庫]p.391

ニーチェは、彼の友人たちが宗教への深い帰依のために自己犠牲をしていることが許せなかった。それはかなり根強い敵であったので、強い言葉で否定せざるを得なかった。一方で、キリスト教を否定するのであれば、それに代わる「神」が必要だった。彼にとってそれは「永遠回帰」や「超人」が本来位置すべきものという直観があった。彼はこのプロジェクトを達成し、友人たちを救うことを目標としていた。しかし、それが彼の最後の呪縛になっていたのだろう。必要性から行動していては真に「子供」になることができない。あらゆる責任から解放され、彼自身がいまこの瞬間を楽しまないと。

ツァラトゥストラの最後の文章である。自然との調和を感じたツァラトゥストラに最後の試練が投げかけられる。「俺の最後の罪として残されていたものとは、何なのだ?」ツァラトゥストラは自分のなかに閉じこもり、ふたたび大きな石に腰をおろして、考えこんだ。そして突然、跳びあがった。

「同情することなんだ!高級な人間に同情することなんだ!」と、ツァラトゥストラは叫び声をあげた。顔が青銅のように硬くなった。「よし!それも終わったのだ!俺の悩みや俺の同情なんか――それがどうした!俺は、幸せを手に入れようと努力しているのか?俺の仕事を手に入れようと努力しているのだ!よし!ライオンが来た。俺の子どもたちが近くまでやってきた。ツァラトゥストラは熟した。俺の時が来た。これは俺の朝だ。俺の昼がはじまるぞ。さあ、来い、来い、大いなる正午よ!」

ニーチェ『ツァラトゥストラ(下)』 丘沢静也訳[光文社古典新訳文庫]p.393


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