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とある磯野の禁書目録 其の四(最終話)

其の壱 https://note.mu/sato_kurihu/n/n9a8993999714 
其の弐 https://note.mu/sato_kurihu/n/n61addea67c90
其の参 https://note.mu/sato_kurihu/n/n14e54531d223

(4)結

カツオが見つけた大きな穴、そしてその穴から続く地下への階段…
階段の奥には大きな広間があり、大型厨房あるいは工場を思わすような設備がところ狭しと並んでいた。
それは想像をはるかに超える光景であった。

遠くから、低い声が響いた。
「カツオ、よく来たな」

「―――うわぁぁぁぁっ!!」
突然のことに、カツオは悲鳴にも似た声を上げた。そして声の方向に目をやると、そこにはカツオの予想に反し、父・波平の姿と、探していた母の姿があった。

「父さん!! 父さんは会社に行っていたんじゃなかったの? それに母さんまで…。それにこの地下工場のような設備は何!?」
波平はその言葉を制止するかのようにカツオに向かって右手をかざした。そして落ち着いた表情でカツオを諭した。

「磯野家の長男であるお前に、伝えなければならないことがある。カツオ、とりあえずそこに座りなさい」
カツオは何も答えぬまま、近くにあった丸椅子へと慎重に腰をかけた。

しばしの沈黙の後、波平は唐突に質問を投げかけた。
「お前はシャルトリューズと呼ばれるリキュールを知っておるか?」

シャルトリューズ?――名前ぐらいは聞いたことがある――カツオは曖昧な表情で軽く頷いた。

「シャルトリューズは一般に130種のハーブからなるリキュールだと知られておる。そのオリジナルは今から400年前、シャルトリューズ修道会に伝授されたフランス宮廷の霊薬であり、そのレシピから製造に成功するまでには100年の年月を要したそうじゃ。そしてそのレシピは今なおシャルトリューズ修道院の修道士2、3人に守られておる…」
波平の話に、フネも小さな相槌を打った。

「シャルトリューズはリキュールの女王とも称される銘酒だ。何百年もの間、多くのフランス国民はそのレシピや製法を知りたがった。しかしそれらが外部に漏れることは一度たりともなかった。この400年間、シャルトリューズのレシピを知り、そのレシピを守ってきた人間が常に存在していたにも拘わらず…。ではカツオ、なぜシャルトリューズの秘密を守り続けることができたかわかるか?」
カツオは、首を横に振った。

「わからんのも無理はない。実はシャルトリューズのレシピを知る修道士はフランス人ではなかったんじゃ。そしてその調合場所もフランス国内ではなかった。だからこそ400年もの間、シャルトリューズのレシピは守られてきた。そしての場所というのが…」
そう言うと波平はフネに目をやった。そしてそれと同時に続く言葉が途絶えてしまった。

カツオには波平が次の言葉を言うべきかどうか迷っているようにもみえた。
やがて重圧に耐えられなくなったカツオが小さな声で呟いた
「―――父さん、ひょっとして…」

波平は深く頷くと、再び口を開いた。
「そうだ、他でもない。これまでシャルトリューズ修道院の修道士だけが知っているとされてきたレシピは、我々磯野家が何百年もこの地下室で守ってきたものじゃ。そして現在、シャルトリューズのレシピを知っているとされる2人の修道士とは…」

「父さんと、母さんなのよ…」

フネが波平の言葉に割って入ってきた。
「お前の目の前にいる父さんと母さんが、シャルトリューズのレシピを知る2人なの。シャルトリューズのレシピと製法は、磯野家が代々守ってきた大切な宝であり、最大の秘密なのよ」

「―――父さんと母さんが? ほ、本当に!? 」

フネよりも先に波平が頷き、そのまま話を続けた。
「信じられないかもしれないがカツオ、全ては真実だ。しかしお前に伝えるべき話はこれからが本台なんじゃ。シャルトリューズは元々、フランス宮廷に伝わる不老不死の秘薬じゃった。しかし我が一族が100年をかけて製造に成功したその内容は、不老不死の霊薬には程遠く、ただの薬用酒にすぎなかった。その最大の理由は、オリジナルレシピにある130種の素材うち1種類だけがどうしても手に入らず、そのレシピを完全に再現できなかったからじゃ。そしていつからか我が一族も、その不完全な129種の素材によるシャルトリューズの内容で甘んじるようになっていた。しかしわしにはそれが許せなかった。オリジナルのシャルトリューズの製造に向けて何年もかけて無我夢中で最後の素材を探し続けた。そのストレスで髪は薄くなり、小さなことにイライラして怒鳴ってしまうこともあった。しかしその努力があってついに130種類目の素材を手に入れ、この地下階段での繁殖にも成功したんじゃ。お前もここに来る途中で見ただろう、階段に生えていた大きなキノコの姿を…。あの大きなキノコによってついに、フランス宮廷門外不出の秘薬『オリジナルシャルトリューズ』を完成させることができたんじゃ」

「―――それってつまり…」
カツオには思い当たることがあった。
カツオが何年も疑問に感じてきた『磯野家最大の謎』―――不老不死、歳をとることなく、いつまでも磯野家が若さを保っていること…

「わしが蘇らせたオリジナルレシピのシャルトリューズは、オリジナル同様に不老不死の効能を持っていた。このリキュールは磯野家に、永遠に年をとらない奇跡の肉体を提供してくれた。実はお前たちが晩御飯で飲んでいたあの緑色の液体はただの緑茶ではなく、オリジナルのシャルトリューズを少量加えたものだったんじゃ。そのおかげで磯野家は永遠の若さを手に入れた。もちろん不老不死の効能があると言ってもお酒であることは間違いない。お前たちはしばしば馬鹿げた失敗をしておったが、実はそのいくつかはシャルトリューズのアルコール分が原因だったんじゃ」

「―――えっ、我が家のおっちょこちょいは、お酒で酔っぱらっていたからなの?」

「そうじゃ。だからわしもマスオ君も、車を運転しないようにしていたんじゃ。しかしカツオ、お前は身分こそ小学生だが、実際の年齢は二十歳をとうに過ぎた立派な成人男性じゃ。シャルトリューズヴェール、この緑のリキュールを今一度この場所で飲んでみるとよい。お前にはこれから大切な仕事がある。お前はシャルトリューズのレシピを知る、第三の人物となるのじゃからな…」

カツオは不安を感じながらも、波平の言葉に大きく頷いた。この階段を下りた瞬間から、何があっても驚かない覚悟は決まっていた。いやむしろ劇的なことが起こることを望んでいたからこそ、この階段を下りたのだ。
このまま何の希望も持てぬまま、何年も続く気だるい平和を生きるだけの小学5年生でいることに、カツオは漠然とした不安を抱いていた。
そしてその不安は、もう何年も、いや何十年もカツオを脅かしてきた。

―――ここに、僕の人生を動かす一杯がある…

カツオにはわかっていた。
波平の差し出した緑の液体が、カツオの人生を大きく変える一杯となることを…
カツオはグラスを手に取ると、そのとろんとした常温の液体をゆっくりと口に運んだ…

―――次の瞬間、カツオは思わず顔をしかめた。
アルコール度数55%、強烈なアルコール感が舌を焼き上げた。
しかしその辛味の中に広がる複雑な味わいが、カツオの意識を再びこの液体に引き戻した。

味覚が追い付かない程に、味わいが加速的に表情を増していった。様々なハーブから生み出されたドライでスパイシーな風味が、一瞬にして描かれる点描画のように舌に広がっていった。

その品格に、カツオは無意識に背筋を伸ばした。
敬意を示さざるを得ない威厳に溢れたその味わいに、カツオの意識は完全に引き込まれていた。液体そのものが感情を持っているかのようにも思える素直にして大胆な主張性が、飲む者を逆に飲み込もうとすらした。非日常的にも思える複雑な風味が口いっぱいに溢れ、神経質で病的にすら思える官能的な色気がそこに重ねられた。

カツオの意識は強引に覚醒させられていった。
感性が加速的に鋭さを増し、理性は混沌としながらも躍動的なうねりを得た。
これまでに覚えたことのない不思議な感覚に誘われていることに、カツオ自身が明瞭に自覚させられていた。

続く後味は、液体の奥底から浮き上がるどろっとした甘味が舌に転り、その甘味の中に包容される数多くのハーブが混沌とした風味の凝縮と揺れを誘った。
そして口当たりのハーブ感とのコントラストを描くと、知的で哲学めいた内向性と共に荘厳とすら思える貫禄が突き上げられた。

その甘味がゆっくりゆっくりと舌に沈み込んでいくと、ハーブ特有の辛味や苦味が実体的にその個性を示し、クリアで鋭敏な風味がそこに描写された。
口当たりからのスパイシーさは粒子感を帯び、エッジの強い香味となって複雑に拡散した。シャルトリューズのグランドフィナーレには、眩いばかりの華やかさが大胆に彩られていたのだ。

「嗚呼…」―――カツオは、シャルトリューズの魅力に完全に飲み込まれていた。陶酔しきっていたと言ってもよいだろう。しかしその一方では、まるで自分の意識が体から離脱し、このリキュールに翻弄される自らを客観視しているかのような感覚にも襲われた。
これまでに体験したこともない味わう者を圧倒する力強い世界観に、カツオの胸は激しく高揚したのだった。

「こ、これがシャルトリューズ!!これがシャルトリューズなんだ!!」

カツオから歓喜の声が溢れた。
そして自然と涙がこぼれた。
たったの一口に、この世に存在する全ての芸術性が内包されているかのような感動を味わったのだから…

時にモーツァルトのように甘美で華やかであり、時にゴッホのように重厚で内向的で、時に民族舞踊のような土色を感じさせ、時に捉えどころのない官能的な色気で世界を染め上げようとしながら、徹底した複雑さと知性の高さから数理的な表情すら感じさせた。
そして何よりも宗教的にも思えるメッセージ性の深さと威厳、存在感、伝統性といったものが濃密に凝縮されていた。

波平がカツオに声をかけた。
「わしも今のお前と同じくらいのとき、同じようにこの場所でシャルトリューズを味わった。その時の思いは今なおわしの心に刻まれておる。お前もこの味を、この思いを一生忘れてはならない。そしてお前はこれから決意を一つ固めなくてはならない…それは自由や平和でもなく、シャルトリューズという使命のために生きることへの決意じゃ」

「父さん…、僕は…」―――カツオが自分の気持ちを言いかけた次の瞬間…

カツオの目の前から、あらゆる光が失われた。
カツオは自らの意識が暗闇に転落し、何かに飲み込まれていくような感覚を覚えた。
強烈な不安感に体温が一気に下がり、体中から鳥肌が吹き上がった。
恐怖感が脳を支配し、今まさに精神が崩壊すると確信したその時…

「うわぁぁぁぁぁっ!!!!!!!!!」

カツオは目を覚ました。
枕の横では、目覚ましのベルがいつも以上の音量でけたたましく鳴り響いていた。
そうだ、今日はかもめ第三小学校の始業式だった…

一階から姉さんの声が聞こえた。
「カツオ、なにやってるの!? 朝食ができてるわよ!! もう5年生になるんだからしっかりしない!!」
「今行くよ、姉さん!!」
階段に向かって面倒くさそうに返事を投げかけると、カツオは目をこすりながらランドセルを手に取った。
一階からは、みそ汁の柔らかな香りが届く…

「―――今日も美味しそうな香りじゃないか…」

階段を降りるという選択に、躊躇する理由は何もなかった。
カツオは確信していた。
この階段の先に、いつもと変わらぬ家族の団らんと、永遠に続くべき日本の食卓があることを…
カツオにはそんな生活が、いつも以上に愛おしく感じられた。

「日常って素晴らしい」

―――それは今日からまた5年生となるカツオの新しい発見であった…。

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