読書ノート 22 女たちの沈黙


英国ブッカー賞作家による「イリアス」の語り直し
 今からおよそ3000年前の古代。エーゲ海に面したトルコ北西部にあったトロイアと、ギリシャのミュケナイ・スパルタ・ピュロス・イタカの4国連合軍が相まみえ、10年余にわたって戦闘を繰り広げたトロイ戦争。「トロイのヘレン」や「トロイの木馬」でその一端は広く知られており、B.C.800年ころには詩人ホメロスにより「イリアス」と「オデッセア」に記され、世界の古典として親しまれてきた。本書はそのトロイ戦争の最後の51日間を扱った「イリアス」に忠実に、現代的な問題意識の許に書き改められた作品である。「女には沈黙が似つかわしい」として戦記物から取り除かれた女たちの肉声や内奥の嘆きと哀しみ、忍耐と従容、祈りと諦観などを採録し、言語化し、文学へと昇華させている。

トロイ戦争の当事者たち
ギリシャ連合軍の国王・英雄
 ・ミュケナイ王 アガメムノン、ギリシャ連合軍の総大将
 ・スパルタ王  メネラオス
 ・ピュロス王  ネストル
 ・イタカ王   オデッセウス
 ・ギリシャ隋一の英雄 アキレス、物語の主人公の一人
トロイア国の国王・英雄
 ・トロイア王 プリアモス
 ・トロイア第1皇子(兄) ヘクトル、トロイア軍の総大将
 ・トロイア第2皇子(弟)   パリス
リュネソス(トロイの隣国、都市国家)
 ・王妃 ブリセイス、アキレスの<戦利品>

あらすじ
 第1部
 リュネソスの王妃ブリセイスがアキレスの<戦利品>になり、アポロンの祭司クリュセスの娘クリュセイスがアガメムノンの<戦利品>となる。トロイア軍の味方に加わったアポロン(男神)は正義の神であると同時に病魔を操ることもできる。アポロンの祭司は勝利したギリシャ連合軍の勢いを削ぐために、ギリシャの宿営にドブネズミを宿主とする伝染病を流行させる。
これを終息させる条件として、ギリシャ軍は祭司の娘クリュセイスをトロイアに帰還させることを求められる。クリュセイスの<所有者>であるアガメムノンは自分の<戦利品>を手放す代償としてアキレウスの<戦利品>であるブリセイスを自分に譲り渡すことを要求する。アキレウスは伝染病の抑止という大義の前にこの理不尽な要求に応じるが、アガメムノンを嫌悪するようになる。
 第2部
 トロイアは全軍を立て直し、総大将ヘクトルを押し立ててギリシャ連合軍に対峙する。一方のギリシャ軍はアキレウスの代わりに副官のパロトクロスが全軍の指揮を執る。アキレウスはアガメムノンに面従腹背で、宿営に留まる。しかしアキレウスが危惧したように、パロトクロスはヘクトルのまえに敗れ、遺骸となって陣営に帰還する。アキレス、生前に心を通わせたブリセイス、妻のイーピスの哀しみは深い。とりわけ無二の親友として苦楽をともにしたアキレウスは茫然自失となる。アキレスなしではトロイアに勝利できないことが分かったアガメムノンはアキレウスに戦線への復帰を懇請する。条件としてはブリセイスを再びアキレスに返すほか、十分な見返り品を贈ることを挙げる。幸いブリセイスはアガメムノンとベッドをともにしておらず、アキレウスはこの要請を受け入れることにする。こうしてアキレウスはヘクトルとの対決を決意し、パロトクロスの弔い合戦に臨む。
 第3部
 連合軍随一の勇者アキレウスとトロイアの総大将ヘクトルとの対決はアキレウスの勝利、ヘクトルの死をもっ て終わった。ギリシャ陣営に運ばれたヘクトルの遺体は原型を留めないほど損壊していた。トロイア王プリアモスは単独でアキレウスを密かに訪ね、息子の遺体の引き渡しを懇請する。アキレウスは親友パロトクロスの死を悼み、いまや妻となったブリセイスの願望も聴き入れ、プリアモスに礼節と敬意をもって死化粧を施したヘクトルを引き渡す。しかし海の女神である母神テティスの預言通り、アキレウスは次の戦闘で命を落とし母の許へ旅立つ。残されたブリセイスにはアキレスの子が宿されており、母子はアキレスの側近の一人アルキモスが父親代わりとなってオデッセウスの率いる旅団に加わりギリシャへ向かう。

女性の立場から見た戦争の記述
 国の生い立ちや民族を奮い立たせる神話、叙事詩、戦記はほとんど例外なく男性の立場に立って語られ、書かれ、伝えられてきた。不世出の英雄が声高らかに氏族や民族を鼓舞するシーン、戦闘における勇猛、獅子奮迅の活躍、神与の能力が発揮され場面がつづられ、帰郷を果たした勇者は民衆の歓呼をもって迎えられる。心躍る絵巻であり、タピストリーであり、絵画であり、古典として後代にわたって永く継承される。本作品の出典となっている「イリアス」もその典型である。しかしそれらの中に女性の声を拾うことは絶望的に難しい。著者のパット・バーカーはこの難事を3000年にわたる時間の大海原を航りながら、女性への深い共感力、五感と磨かれた言語を駆使して見事に成し遂げた。沈黙していた女たちがバーカーに語り始めたのである。雪解けを待っていた大地に花々が開花するように。彼女たちは白いチュニックで身を包みながら。永い眠りについていた女性たちがバーカーによって蘇ったのである。女性たちは 
・イーピス ブリセイスと一番親しい女性、パトロクロスの<戦利品>
・クリュセイス ブリセイスたちの中で最も若い女性、神官の娘、アガメムノンの<戦利品>
・ヘカメデ ブリセイスと年が近い女性、ネストルの<戦利品>
・ユーザ 世慣れた女性、オデッセウスの、<戦利品>
・テクメッサ 幼い息子のいる女性、アイアスの<戦利品>
 征服者の<所有物><戦利品>(性奴隷)だった女たちが人格を備え、一人ひとり個性、慈しみ、思いやり、怒り、憤りを持った女としてその姿を現したのである。ときあたかも#MeTooで高揚したフェミニズムに呼応するように。

データ:作者はパット・バーカー。1943年生まれの英国の女性作家。1995年ブッカー賞受賞。日本語版は早川書房から2023年1月に出版された。訳者は早川みちよ。457ページ。
訳者による巻末の解説(HAYAKAWA BOOKS & MAGAZINSに掲載)を参考にしました。記して謝意を表します。
また朝日新聞書評欄「好書好日」に掲載された大塚元・法政大学教授(政治思想史)による書評「男社会を疑われぬ古典を語り直す」(2023年2月25日)も参照しました。





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