読書ノート 21 マザー・ツリー
森林に隠された「知性」をめぐる冒険
著者はカナダ・ブリティシュコロンビア大学森林学部の女性教授。森林にある樹木は地下に延びる「菌根菌」で互いを結びつけるネットワークでつながり、成長に必要な養分や水分をやりとりし、成長ばかりでなく火災や病害虫などの災害からの防護にさえ協同で対応している。最近テレビなどでも森林が持っている互恵のネットワークに注目した番組が放映され、人間が獲得した知性にたとえて、森の「知性」として受け止められるようになってきた。この概念を初めて見い出したのが著者のスザンヌ・シマード教授であり、今やTEDや映画でも話題になっている。本書は著者の初めての単行本である。
北米西北部に広がる原生林
カナダ西部のブリティシュコロンビア州や米国北西部ワシントン州やオレゴン州には良質の木材を生産する原生林が広がる。モミ、マツ、スギなど樹高50mほどに達するものもざらで、幹はまっすぐ。樹冠を含めたその姿は見る人を虜にする。私もその例外にもれず、この地を訪れたときの感嘆を今もって憶えている。とくにオリンピック半島北部を横断するときに峠で鳥瞰した針葉樹林は圧倒的な美林として今もよみがえる。
本書の著者はこの原始の姿をとどめる森の中で生まれ、木材業を生業とする家族とともに森に育てられた。長じて森林生態学に目覚め、心を鷲掴みにされ、寝食を忘れてフィールド研究に没頭する。20年余にわたる研究は、森林の地下に張り巡らされた樹々の血管系統とも神経系統ともたとえられる「菌根菌」の驚くべき発見に導き、その成果がネーチャーの表紙と巻頭論文を飾った。本書は苦闘と歓喜の日々、森への賛歌を奏でた作品である。
平坦ではなかった研究者の道
著者が大学卒業以来携わった職は林業の監督行政を振り出しに、フィールド研究の業績をもとに、大学のテニュアー(永久在職権)に任用され、教育研究に専念するようになり、現在に至る。この間30代から40代にかけて結婚、出産、子育て、そして離婚。さらに2人の娘がまだ10代にさしかかったところで乳がんの除去手術を受ける。この間に受けた2人の娘、家族、友人、知己からの励ましや労わりは、困難に直面したときの家族愛や人間愛の発露として胸を打つ。
フィールド研究
フィールド研究、それを補完する実験室実験が本書の中核である。多大な労力、予算、時間、さらに危険を伴うことから、それに打ち克つ強い心もフィールド研究には要求される。カナダの森林研究のメインストリームは森林の皆伐と単一樹種の植林。緑の森をまる裸にし、その後は不要な樹種は雑木とばかり、これらを徹底的に排除する。人力で足りなければ化学薬品まで使って。これでは森が壊れてしまい、復活は望めず、死滅に向かう。著者の直感と真逆の政策をストップさせるにはどうすればよいのか? メインストリームの考え方の基礎となっているのは樹種間の競争が厳然と存在するという堅固な観念。対して著者の直感はむしろ樹種間の協力関係の存在である。しかしこれを実証するにはどうすればよいのか。しかもフィールドで。
ここで著者は原点にもどっていくつかの典型的な競争関係にあると思われる樹種について植林時に組み合わせて育種する計画を立てる。実験計画である。(コントロールできる変数が多すぎるため、実験回数を減らすために、変数を計画的に間引きする。)樹種で注目したのはダグラスファー(モミ)とアメリカシラカバ。モミの育成にとってカバは邪魔もの扱いだ。しかし著者はこの組み合わせに注目。モミとカバの間隔を一定に保ち、これらの間に深さ1mの溝を掘って両者を隔絶したり、地続きの場合にも、根周りを目の粗いネットで包んで地下での連携を妨げない仕様と、目の細かいネットでくるんで両者の連絡を遮断する仕立てにするなど。組み合わせはもちろん有限だが、それでも試験ヤードは広大になる。
森林生態学の新たな1ページ
結果は著者自身を驚かすものだった。異種は四季の夏と春秋でそれぞれに蓄えた養分や水分を相互に補給し合うのだ(これを炭素同位体で定量的に測定したところが学術的に評価された)。決してカバはモミの生育を一方的に妨げる邪魔者ではない。不足するときにはカバはモミを助け、異なる季節にはモミがカバに力を貸すのだ。地下のネットワークの存在。それがフィード研究によって明らかにされたのである。投稿した論文は1回の修正を経て、1997年8月号のネーチャーの表紙を飾る特集記事として掲載された。
「1立方フィートの土壌中には160km分の菌糸が詰めこまれている」(p.
390 )
「ネーチャー誌は私の発見を”ウッド・ワイド・ウエブ (Wood Wide Web)“ と呼び、そこから一気に状況が進展した。報道関係者から電話が鳴りやまず、eメールが殺到した。------ ある夜、私のなかの何かが堰を切り、私は声を上げて泣いた。------ 涙が枯れるまで泣いた。」(p.385)
マザー・ツリーの発見
フィールド研究はさらに続く。本書の主題となっている「マザー・ツリー」の発見である。マザー・ツリーは一群の樹林にあって、樹齢からしても襲いかかった幾多の災難に耐えた経験から言っても、「余人を以って替え難い」存在であり、その名は「古老」と呼ぶに相応しい。マザー・ツリーは地下ネットワークと周辺の樹木との遺伝子のつながりによる。この地下システムにおいて「菌根菌」は神経系統としての役割を引き受ける。古い木と若い木はハブとノードに位置づけられる。この地下ネットワークが森林生態系に「知性」を形成する。
「古木は森の母親だ。これらのハブはマザー・ツリーなのだ。------ 若者の面倒を見る年長者、そうマザー・ツリーだ。マザー・ツリーが森を一つにつないでいるのだ。中心にあるマザー・ツリーを実生や若木が囲み、さまざまな色や重さを持ついろいろな種類の菌糸をそれらが幾重にもつなぎ、強靭で複雑なネットワークを形成している。私はノートと鉛筆を取り出して、地図を描いた。---マザー・ツリー、若木、幼木、そしてその間を線でつないだ。そのスケッチから、ニューラルネットワークのように見える図が浮かび上がってきた ---人間の脳のニューロンのように。なかにはほかよりも多くのものと結ばれているノードがある。なんということだろう。」(pp.397-398)。
研究者養成
本書の読みどころは学術的成果とその意義に尽きない。研究者の養成が主として大学院、ポスドクに移ってきていることは日本もカナダも変わらない。問題は教授を頂点とし、ポスドク、博士(DC)、修士(MC)、学部生(UG)
と系統樹でつながるそのシステムである。ポスドクはDCの学位を持つ研究者であるが、まだ途上にある。その力量はMCやUGの指導を通じて高められていく。そこで期待されるのは教授(研究室)の研究計画の一部を担える主導的研究者の役割である。研究計画の立案、中間評価など教授の任務を代行することができるかが焦点となる。
著者はこうした研究者の養成においても見事にやり遂げているように見受けられる。DC、MCの指導については修行年限を考慮に入れ、実験室実験を計画に織り込んであり、妥当と思われる。また成果を論文にまとめ学術誌に投稿するよう仕向けており、適切である。印象深かったのは中国からのポスドク採用で、事前に研究概要から「資格」判断を済ませ、受け入れ後は間髪を入れずフィールド研究に同行させ、その潜在的能力を新たに引き出すことに成功している。並みの研究者にできることではない。良い指導者に恵まれれば、力のある若手は若木のように伸びることの良い実例だ。
研究者としての生命は人の絆で育まれる
最後に本書が送り出しているメッセージをもう一つ書きとめておきたい。本書の末尾の謝辞で書いているように、家族、友人、同僚への感謝がに随所に滲み出ている。弟と口論の末、音信も途絶え、気がかりだったところに事故死の悲報が入る。償うこともできないまま永遠に別れることになったことへの後悔は深く哀しい。自分の2人の娘のミドルネームにはこの弟の名前を添えている。両親や兄弟とその同伴者たちとの編み物のような絆が繰り返し言及される。著者を育んだ森も濃密な愛情に一役買っているのだろうか。都会育ちより一味も二味も濃いように思われる。がんサバイバーとしての著者を支えた女性の友情も海のように深い。カナダ社会に根付いた良質な人間愛を感じさせる。
印象深いのは30代でまだ予算が十分つかない状況下で両親や姉弟が研究補助者の役割を引き請けてくれたこと。ノーベル化学賞(2008年度)を受賞した生物学者の下村賄博士もGFP(緑色蛍光タンパク質)をオワンクラゲから発見する研究では、家族総出で海岸に出向きクラゲを採集したことが語られており、著者の体験と通じるものがある。
また著者の仕事と生活を公私にわたり支えた女性支援者たちの存在も印象深い。なかでも先住民族の血を引く女性の一人は、著者が離婚で困難に陥ったとき著者にソウルメイトとして寄り添ったことが印象深い。
著者をリーダーとする研究プロジェクトは mothertreeprojectとして世界中に開かれており、参画が呼びかけられている。また長女は著者の感化を受けて森林生態学の研究者を目指しているようだ。こころ温まる世代継承である。
データ:著者はカナダ生まれの生物学者(森林生態学)。ブリティシュコロンビア大学で教鞭をとる。日本語版は訳者・三木直子。出版はダイヤモンド社、2023年1月。573ページ。
NYタイムズ、WSJ、ガーディアン、FTが絶賛。
養老孟司、隈研吾、斎藤浩平、エイミー・アダム(女優)賞賛
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