読書ノート 31 たんぱく質
生き物たちと人の生き方についての84の断章
さまざまな生き物たちが見せる驚きの世界、生物の本源的な宿命、そして人生にまつわる喜怒哀楽、神の存在と宗教、小説と小説家など、長短さまざまな断章が84つづられる。読点のみで句点のない文が思考をやや困惑させるし、横書きの文を下からめくる不慣れな道行ながら、著者の語り口に耳を傾けるのも一興である。順不同に印象を記してみたい。
生き物たちが見せる驚きの世界
最初の驚きはヒエやアワと水のみで生き続ける鳥かごの中の小鳥。これだけで生きられることへの不思議さに驚く。つぎはタコとイカに注意が向かう。飼ったこともあるタコについては賞賛を惜しまない。足を縛っておいてもするりと抜け出し、自由の身となる。知能は驚くほど、「吾輩はタコである」。
著者のゴキブリへの関心は多くの断章をこの生物に割いていることからも明らかだ。テラテラした黒光りの不気味さ、まるで地図が頭に入っているかのようなスピードあふれる移動、そして捕まえようとすると羽根を拡げて飛び去る。一つがいの彼らが産む子どもは年間500匹、うち498匹は死んでしまう。これで命を繋げているのだから、逞しい。イナゴやサバクトビバッタにも言及する。昆虫万歳だ。
生命への根源的な問い
「人はなぜ生きるのか?」「生命はなぜ生きられるのか?」。 著者の根源的な問いが発せられる。答えは哲学的な思考を要求する。明らかな事実は人も含めた生き物が例外なく他の生き物の生命をいただいて生きていることだ。善悪の問題ではなく、倫理の問題でもなく、神の意図をこそ汲み取るべきなのだろう。おそらく宗教は神の世界とつながっているのだろうが、階層や上下の関係はわからない。著者の現在地は宗教への門という地点に差し掛かったという自覚。60歳の還暦をまわり、宗教が自然に近づいてきたとの感覚が文脈から伝わる。
人生の喜怒哀楽
20代、30代、50代と著者はさまざまな職に就き、パートナーと同居し、子どもも一人恵まれた。20代は職探し、自分探しの10年。警察の職務質問を受け、「タコ」という罵声を浴びせられ、微罪ながら犯罪予備軍に登録された。30代で再び職質に遭い、今度は深夜(丑三つ時)女児を伴い散歩中に御用となった。不愉快この上ない。
しかし40代からは清掃業の職に就き、都内、近郊の県、軽井沢まで清掃業をこなした。褒められ、給料ももらい、地味ながら生計も立った。とくに事務所が勝どき橋のたもとにあった関係で、おひざ元の月島界隈に足を延ばした。もんじゃ焼きに地元の歴史を嗅ぎ取り、庶民の感覚にも違和感がなかった。行政や警察とは違い、平均的な暮らしに息づいている健全さが心地よかった。
小説と小説家
46章「小説」で著者は「小説とは何か?」「小説家とは何か?」と自問している。答えはこうだ「こうして書く以上、たとえ微かにでも、自分にとっての価値の感触のようなもの、それがなければ、やはりとうてい小説を書く、などということはできそうにない、この私には」。また小説の表現手段として本を挙げてはいるが、媒体(メディア)としては本に限定していないことにも注意したい。むしろクリエーターであり、劇作家でもある著者にすれば、創作物を最も有効に、有意義に表現する手段であれば、文字、音声、画像、映像などさまざまあってよい、ということになろう。
補遺
ここまで取り上げた題材、話題のほかに、いくつか補いたい事項がある。
・科学という噂
直接手に触れることができない、しかし科学的事実であることが実証されていることがらはたくさんある。これらを著者は慎重に「噂」と呼んでいる。著者にとっては地面は平らで、広大な地面のはるか彼方の四隅は柱で支えられている。著者にとっては天動説の方が馴染みがよい。同時に夜空を覆い尽くす無数の星の瞬きを見ると、実際には宇宙が天空を支配しているようだ。これもまた著者の率直な感慨である。
・スペースシャトルの打ち上げ失敗
1986年米国フロリダ州のケネディ宇宙基地から打ち上げられたスペースシャトル・チャレンジャー号は、発射直後に爆発炎上し8人の乗組員が死んだ。事故調査委員会が調べた結果、打ち上げ強行の陰に、技術的課題を未解決にしたまま、スケジュールを優先させたことが分かった。今後もこの失敗から学び続ける必要がある。通信衛星を打ち上げるためにJAXAは主力ロケットをH2からH3に変え、計画を進めている。細心の注意が必要なこと、著者に同感である。
・グローバリズム
ニュースがあまりにも大量で、ついついやり過ごしてしまう。しかし世界中で災害や予期せぬ事件が起きる。新型コロナまではこれほどのパンデミックになるとは誰も予想していなかった。2年余で500万人の命をひと呑みにしてしまった。また大震災や凶暴な風水害は毎年のように世界各地を襲う。なにかと浮足立ってしまう世情である。頭をリセットして対応力を鍛えておく必要がある。
・刷り込みと教育
もの心がつかない幼子は育ての親の習性をそのまま自分のものとして獲得する。カッコウがその一例だ。この刷り込みはその後も教育では変えがたい。刷り込みは生物学的な遺伝、一方教育は形態学的な遺伝として区別される。出生地(国や地域)や幼少時に身に沁み込んでしまった慣習は容易には変えられない。教育には限界があることを示唆する。納得の指摘だ。
データ:作者は現代美術家、劇作家で演出家の飴家法水。1961年神奈川県生まれ、53歳。出版社はpalmbooks、2024年3月、137ページ。
朝日新聞書評欄「好書好日」に掲載の小澤英美東京学芸大学准教授・翻訳家による書評「人の業や悲しみを見すえた祈り」(2024年5月18日)を参照しました。
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