読書ノート 35 笑う森

神森(かみもり)での多彩な出遭い
 小樹海の中で迷子になり、救出された少年が出会った切なくも心温まる物語。主人公は山崎真人、5歳児。保護者はシングルマザーの岬(みさき)と叔父の冬也。真人は発達障害(ASD)を持つ。救出されるまでの1週間神森で出会ったであろう人について訊いても「くまさん」としか答えない。岬と冬也は森を踏破することで手掛かりを得ようとする一方、この期間に真人に逢ったであろう人を探すことにした。ゴールはまったく見えていない。が真人のため、さらにASD児たちの未来につながる手掛かりが得られればとの一途な想いから。

物語はミステリ小説仕立て
 真相を知るために物語は岬と冬也による足と頭を使ったルートと、出逢ったであろう未知の人を探しながらインタビューで語ってもらうルートの二本に仕立てられている。どちらからも驚きの事実が浮かび上がってくるのだが、ルートの切り替え、時間の順行と逆行もあり、フィクション好きの読者にはサービス満点だ。

ASD児の特徴
 真人だけではないかもしれないが、ASD児にはミニカーや積み木、ブロックなどの並べ替えに熱中する傾向がある。この特性は神森のような自然環境では石ころや昆虫の亡骸などに置き換わる可能性がある。岬と冬也もこの置き換えに注意が向かわなかったのである。行方不明初日に実は公道や駐車場からほど近い地点に真人がいたにも拘わらず、置き去りにしてしまったらしい。返す返すも残念である。
 真人は寒さを凌ぐために大きな樹の根元にある洞の中に胎児のように身体を丸めて過ごしたようである。幸運にも夜気は真人の生命を奪うほどでもなかったのであろうが、危険この上もない。

神森で出会った4人の男女
 最初に迷子の真人に気づいたのは20代の若い女性、美那である。付き合っていた同年代の男と諍いになり、誤って殺害し、その死体遺棄のために神森に入ったのである。駐車場に近い場所に遺体を埋めようと巨大なマテバシイの根元近くを掘り起こしていたところ、夜目に朧げに浮かんだのは身長100cmほどの子ども。たしかこの森に行方不明となった子どもがいる。その名を思い出して「真人」と呼び掛けて手を差し出したところ、警戒されて巨樹の洞に逃げられてしまう。美那は赤いマフラーで真人の首を巻き、羽織っていたダウンジャケットで身体をすっぽり包んで、洞に這いつくばっていく真人を置き去りにした。罪悪感とともに。
 二番目に真人に接したのは自称ユーチューバーの戸村拓哉。「タクマのあくまで原始キャンプ」が人気のユーチューブだ。ただし自撮りカメラの映像は後日編集して現地の雰囲気を漂わせているものの、フェイークに限りなく
近い。面白いのは縄文時代の火起こし(杉板に棒状の錐もみを押しつけ着火するまで回転し続ける)だけは毎回映像に映しこんでいる。逢ったとき、真人はおそらく美那に置いていかれて丸一日が経っているのだが、差し出した水やジュースは飲むものの空腹に喘いでいる様子はない。しかし火起こしと焚火、飯盒を使ったキャンプ料理には関心を隠さず、しかもこの日作ったレトルトカレーも平らげてしまった。ところが連れ帰ろうとしたときは、姿は消えていた。捜査隊にすぐ報告しなかったのは、原始派ユーチューバーがバレてしまうことへの自己保身だったと、これは後日談。
 3番目は谷島。反社会組織(暴力団)の組員。上納金(1,423万円)をリュックに詰めて逃走中に真人が車に近寄ってくる。どうやら風を引いたようで額に手を当てると40度近い熱。車の後部座席をベッドにして横たえ、持ち合わせの解熱剤と周りの野草を煎じた即成の解熱剤を飲ませ、様子を観る。しかし暴力団の追跡は執拗で、谷島は銃殺されてしまう。万事休すと思いきや、高熱にうなされながらも真人は昏睡状態にあり、この難を免れる。北島のリュックのお金は後日、望み通り娘の莉里香の臓器移植手術の費用として返却される。
 4人目は40代の女性中学教師、畠山理美(さとみ)。理美は教師を続ける自信を失い、自殺の場として神森に入る。首を括れる手ごろな樹木を探しているうちにマテバシイにたどり着く。その根元にある大きな洞を覗くと少年が身体を丸めて座っている。見れば寒そうで、自分が身に着けていた赤いマフラーとダウンジャケットを羽織ってやる。バナナも食の足しにと置いてその場から立ち去る。あまり騒ぎを大きくしたくない、万が一自殺に失敗する可能性も無きにしもあらず。身勝手この上ない。これは捜査隊の推測であるが、真人が神森で出会った最初の「クマさん」は理美であった可能性が高い。理美は身が縮む思いだっただろう。

SNSへの反撃
 1週間にわたる真人の迷子に対して、家族への避難も吹き荒れた。とりわけ母親に対するバッシングは岬を圧倒した。とくに母親の資格失格をつのる非難、捜索を1週間も続けることへの是非など、とげとげしい。岬は冬也と拓哉の協力も得て、発信者を割り出し、謝罪にまで追い込んだ。しかし当事者たちは多分またネタがあれば同じことを繰り返すであろう。SNSへの規制に限界ある現状では、ウイルスを撒き散らす側とワクチンで対抗する側の争いはなくなりそうもない。

神森での邂逅
 本書のテーマは二つのルートで出会った4人の男女と迷子の保護者との邂逅とそこから立ち上る未来であろう。「会う」「逢う」「遭う」さまざまな言葉がある。しかし一番的を得ているのは「邂逅」であろう。ひとが優しくなれる出会い、人が笑顔になれる出会い、人が正直になれる出会い。それを大切にしたいものである。

データ:作者は作家の荻原浩。1956年、埼玉県生まれ。受賞多数。出版社は新潮社、2024年5月、464ページ。
新潮社のサイトに吉田伸子さんによる書評が掲載されています。(2024年5月30日)


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