読書ノート 33 偽りの空白

晴れの日に起きた弟の死、真相の解明に立ち上がる姉
 高校最終学年の卒業記念パーティ。有名レストランで友人たちに囲まれ祝福されていたはづの弟のデニー。しかし晴れの日に彼は天に召されてしまった。一体何が起きたのだろう? シドニーの南西30kmにあるカブラマッタで起きた1996年の出来事である。姉のリー・キエンは大学入学とともにメルボルンに転出し、そこで就職したのでカブラマッタには5年帰っていない。両親に再三請われて帰郷したキエン。真相の解明に乗り出そうとするが、まるで砂漠で蜃気楼を追うような心もとなさ。しかし萎える心を封じて一歩一歩細い道を手探りで進む。果たしてキエンは真相にたどり着けるのか。

カブラマッタ
 キエンも高校卒業まではカブラマッタに18年間住んでいた。しかしメルボルンの大学に進学したのを機に、この地を離れすでに5年になる。住んでいた当時とは異なる町へと変貌してしまった可能性がある。
 この度は両親からの再三再四の要請で帰郷した。もちろん理由は弟デニーの死の真相の解明である。実はデニーが卒業記念パーティに有名レストランに行くべきだと両親を説得した責任も感じている。
 カブラマッタでは多くのベトナム人家族が両親と子どもの二世代で暮らしている。理由の一つは言葉の壁がある。親世代は英語の習得が難しく、とくに公的機関や金融機関など書類の作成や申請手続きに問題を抱える。子ども世代は言葉は英語、ベトナム語のバイリンガルなので、親世代には重宝この上ない。キエンもデニーも親の期待には十二分に応えてきた。
 カブラマッタでは移住者は出身国ごとに集住し、パッチワークのように境界を作っている。まるで実際にはない国境が人為的には存在するかのように。

キエンに見えてきた偽りの構造
 キエンが最初に訪れたのは警察である。ところが警察ではデニーの死につながる手掛かりが得られない。理由はデニーの死因の解明に必要な検死のデータがないからである。しかも警察によれば検死を両親が不要と主張したという。キエンはそれでも粘り強く担当のエドワード刑部に尋ねる。デニーの友人関係や当日のパーティ出席者の名簿などを。
 デニーの高校の先生たちの協力もキエンを助けた。ディクソン、バッハ、フォークナーの教科担当の教師たち、それに地理担当のシャロン・フォークナーの4人によりデニーの友人たちの全てに会うことができたし、なかには両親にも協力を呼び掛けてくれたクラスメートもいた。友だちの筆頭はエディー・ホー。当日のパーティにも出席し、同じテーブルに着いていたという。
 もう一つの情報はレストランの専属歌手フローラ・フィンからもたらされた。フィンによればデニーを殺したのは甥のティエン・フィンとその友人。
彼女はティエンに自首を勧めたがまだ警察には行っていないようだ。自分が自首するくらいなら、その候補には事欠かないと嘯いているらしい。カブラマッタはキエンが想像した以上に変わり果てたのだろうか。
 依然として当日のレストランでの出来事に出席者も客もレストラン従業員も「何も見なかった」と口を閉ざしているからである。一枚ベールを剥いだらまた新たなベールが現れたようなもどかしさだ。何故? 分からない。

親友ミニーの変節
 幼い時からまるで姉妹のように暮らしてきたミニー。朝から晩まキエンと一緒に過ごし、朝ごはんも夕飯もキエンの家でとった。ミニーの家庭はキエンの家ほど恵まれず、ミニーのシングルマザーは早朝から深夜まで働きずめで、しかも稼ぎは雀の涙ほど。しかしミニーの頭の良さ、回転の速さはキエンが羨むほど。問題に取りつく鋭さ、解決力、それをキエンに説明する力。意地悪されてもなかなか反論も叶わない。
 5年ぶりに帰郷したキエンは当然ミニーに会えるものと信じていた。しかしミニーはどうやら5年の間にカバラマッタを離れてしまったようだ。それは弟のデニーが殺された時分と一致する。何があったのだろう? デニーの友人の話だと、そのころミニーは街の悪童たちと一緒に暮らすようになり、しかもDVにより軟禁されている状態だったという。真実は? いまは西部で高級取りの職に就いているという噂も。
 ミニーに対する疑惑はほろ苦い。熱気で路面が揺らめく逃げ水のような感覚がある。しかし真相は封印した方がよさそうだ。正義をかざして立ち向かったところで、風車に弾き返されたドン・キホーテの二の舞になりかねない。友情という接点を断ち切るほどの愚かさは卒業した。

変わらない両親
 多くのことが余りにも大きく変わり果てた中で、変わらないのは両親。口数が少ない父親。シドニーの銀行の窓口業務を20年近く務めている。白いシャツに黒いズボン。ネクタイの着用。お仕着せを疑いもなく守り通している。
 母親は専業主婦。家事一切を取り仕切る。ベトナムで身に着けた生活慣習、宗教、道徳を変えることなく、カブラマッタでの日常に浸っている。その良し悪しは措き、キエンにもデニーにも母親の人生観は色濃く投影している。この度の帰郷はそれを再認識させた。「私の中にベトナムの血が流れている」母親に伴われて訪れた仏教寺院、弟が眠る墓参りで深い安らぎを感じたのである。

データ:作者はトレイシー・リエン。オーストラリア出身のベトナム系作家で、ロサンジェルス・タイムズの記者などを経て、カンザス大学大学院MFA(学術学修士課程)で創作を学び、在学中に執筆した本書で作家デビューを果たした。本書の執筆に当たっては関連する文献や記事を丹念に調べ、ミステリ小説の手法も活用しながら、フィクションとして完成させてる。
日本語版は訳者が吉井智津、出版社は早川書房、2024年6月。367ページ。
Hayakawa Books & Magazines に訳者による解説が掲載されている。
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