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そして、佐賀のサブカル少年は「FRUiTS」に載った

ーーーきっかけは、息子のひと言でした。「ねぇ、パパが小さい頃って、スマホもLINEも『どうぶつの森』もなかったんでしょ。なにして遊んでたの?」。1979年生まれの僕にとって、子ども時代と呼べる10代は、ほぼ「90年代」。けれど、スマホもSNSもなかったせいで、ネットを検索してもあの頃の空気感を伝える情報はとても限られています。そこで、90年代に10代だったみんなが「なにして遊んでたの」か、聞いてみることにしたのです。(サトウ)

今回の協力者: コガさん(1980年、佐賀県生まれ)
パリコレブランドの企画運営に携わるなど、一貫してアパレル業界を歩む。趣味はサガン鳥栖の応援と読書(主にノンフィクション)。なかでも好きなのは『警察庁長官を撃った男』(著・鹿島圭介/新潮社)、『消えた横浜娼婦達 港のマリーの時代を巡って』(著・檀原照和/データハウス )、『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』(著・旗手啓介/講談社)。
twitterアカウント: @yhkg

聞き手   : サトウ(1979年、東京都生まれ)

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コガ:僕の実家は佐賀県の田舎町で、いまでも覚えてますけど、中学生の頃、先輩がライブをするからってパー券を売りつけられたんですね。とはいえ、そもそも街にはライブハウスがないわけですよ。じゃあ、どこが会場かと言ったら、先輩のじいちゃんちの納屋(笑)。そこにアンプとスピーカーを運び込んで、もう音は割れるし、牛は鳴くし、どうしょもなかったんですけど、その時にギターをかき鳴らしながらセックスピストルズやクラッシュをがなり立ててた先輩の姿が、まぁ、当時の僕には本当にカッコよかったんです(笑)。「一体なんなんだ、これはっ!」って。自分でTシャツを破いて安全ピンで留めて、髪もツンツンに立たせてね。ヴィヴィアン(・ウェストウッド)なんて置いてる店がなかったから。そんな先輩を見て、なんてカッコいいんだ・・・、と。

サトウ:誰もが経験するんだと思いますけど、親の文化圏を離れて自分なりのカッコよさを発見した瞬間ですよね。

コガ:そうそう、あれが僕の原点かもしれない。その頃、佐賀の若者の間では、メンバーが地元出身のCRACK THE MARIANというパンクバンドが物凄い人気でして。実際に「夜のヒットスタジオ」にも出演するくらいの騒ぎになって、で、僕が中2か中3の頃に、そんな佐賀のレジェンドバンドが地元で凱旋ライブをすることに。でも、さっきも言ったようにライブハウスがないから、結局、僕の通っていた小学校の体育館ですよ、会場になったの。当日は暴走族が小学校の校庭にバイクでわんさか乗りつけて、タバコは吸うわ、シンナーは吸うわで大変な騒ぎでしたけど、そういうのを目にして憧れを抱いたのも事実なんですよね。だから、僕のサブカル的な原点は、農家の納屋と小学校の体育館なんですけど(笑)。

サトウ:僕も同じ頃、先輩のライブ(BLANKEY JET CITYのコピーバンド)に衝撃を受けてバンドを組みましたが、コガさんの場合はむしろファッションに興味を持ったんですよね。

コガ:そこは美容師をしていた父親の存在が大きいですね。普段からギャルソンの服を着ているようなヒトだから、僕がファッションに目覚めたのをむしろ喜んで、唐人町の駅前通にある「GATHER」というセレクトショップに連れて行ってくれた。佐賀では珍しくギャルソンやピンクハウス、ヨウジヤマモトなんかの服を取り揃えてるお店でした。そこで父親にTシャツを買ってもらったり、ですね。あと、中学時代に通ったといえば「JAM」というお店。店名は明らかにポール・ウェラーのバンドに由来してて、扱っている服はアンダーカバー、グッドイナフ、エイプみたいな、いわゆる裏原系でした。店で流れている音楽はもちろん、モッズを筆頭とするUKロックが中心。何しろ、店名が「JAM」ですから。そこに通っているうちに店員さんと仲良くなって、CDを貸してもらったり、東京の情報を教えてもらえるような関係になるわけです。

サトウ:あー(笑)。

コガ:それこそ、「名曲をテープに吹き込んで」貸してくれたりする。しかも、「ハイポジだからな」って(笑)。そういうことありませんでした?

サトウ:あった、ありました(笑)。僕は花屋さんでアルバイトしてた頃に、先輩の女性店員さんからTheピーズの「グレイテストヒッツ1・2」と「クリスマスのうた」の入ったテープを借りました。

コガ:そんな時代ですよね。

サトウ:すごく分かります。いま検索して驚きましたけど、奥田民生の「イージュー☆ライダー」(96年発売)が、すでに四半世紀前なんですね(笑)。その頃の佐賀の高校生ってどういう感じだったんですか?

コガ:僕が武雄市内の高校に通い始めた頃は、隣接する有田焼で有名な有田町がファッション的に有名だったんですね。佐世保ベースに近いせいか米軍由来のカルチャーが流れ込んできてて、スケーターファッションが盛り上がってました。向こうの連中は古着と裏原宿系をミックスしたような格好で、聴いてる音楽もビーズティーズやグリーンデイ、トライブコールドクエストとか。そんなとき、高校で有田出身の女の子がルーズソックスを履いているのを人生で初めて目撃して「すげぇー!『トゥナイト2』(※司会はマガジンハウスの伝説の編集者・石川次郎)でやってた、ルーズソックスってこれのことか!」って(笑)。

サトウ:確かに、ルーズソックスは初めて実物を見たら驚くかも。

コガ:で、高校1年のときに知り合った親友が地元では異常なくらい音楽に詳しくて、フリッパーズギターを教えてくれたんです。僕にとって貴重な情報源だった「STUDIO VOICE」もそうですね。あと、彼のお兄ちゃんに紹介された高校の先輩がいて、その人に連れて行ってもらった“イベント”が、人生で初めてテクノに触れた瞬間でした。

サトウ:その頃のテクノというと?

コガ:ベタですけど、アンダーワールドの「ボーン・スリッピー」。ちょうど『トレインスポッティング』(※96年公開)が盛り上がってた頃で、初めて聞いたのは“クラブ”というか、クラブラウンジというか、まぁ、ホテルの宴会場です(笑)。というのも、地元の先輩たちが「武雄センチュリーホテル」(※同ホテルを受託運営していた「瑞穂商事」が経営破綻し、2020年3月31日付でホテルは営業を停止)のラウンジを借り切って、隔週土曜の晩にイベントを開いてたんです。会場にターンテーブルとミラーボールを持ち込んでね。これがもう凄かった! 高校生の僕らは学校が終わると、駅や文化会館のトイレで制服から私服に着替えて会場に乗り込む。そこにはテクノ好きでオシャレな先輩もいれば、暴走族上がりのヤンキーも、進学校の優等生もいて、当然、女の子たちはめかしこんでやってくる。なんていうか、サトウさんは東京育ちだから分からないと思うんですよ、ほら、東京には渋谷も新宿も原宿も池袋もあるでしょう。でも、僕の育った街には「そこ」しかなかったんですね。いまにも爆発しそうな若い子たちが、そこに行けば何かあるんじゃないか、誰かと出会えるんじゃないか、何かが変わるんじゃないかって思える場所は。

サトウ:そういう熱気が渦巻いてたわけですね。

コガ:そうそう。とはいえ、会場がホテルだからオールナイトどころか、夜9時頃にはお開きなんですよ。あの頃は毎回、ドキドキしながら通ってましたけど、いま思えば健全もいいところ。でも、僕が受けた衝撃は大きかったですね。納屋でライブしてたパンクスの先輩たちも気合が入ってて憧れましたけど、DJをしてる先輩はアンダーカバーのTシャツにリーバイスの501XXをさらっと合わせてて、そりゃあ、カッコよかった。バンドTシャツに細身のブラックデニム、トリッカーズのブーツとかね。それまで見たことないくらい洗練されたカッコよさなんですよね。当時の僕はイベントに行くたびにその先輩たちにまとわりついて、バイクの乗り方にテクノの名曲、ファッションブランドのことまで教えてもらいました。その上で、先輩から「福岡には行ったほうがいい」と言われたんです。

サトウ:おお、そこで佐賀を飛び出すわけですね。

コガ:ただ、佐賀駅から福岡の天神駅までは高速バスで1000円くらい。当時の高校生にしたら往復2000円は大金ですよ。それでも行きましたからね、行かなきゃ気が済まなかった。それで、天神の中心にある警固公園で出会った同年代の子たちと遊ぶようになって、「どっから来たと?」と聞くと、熊本とか(山口県)光市からやって来た子もいましたね。公園で出会った子とはベル番(※ポケットベルの番号。ちなみに、緒方拳・裕木奈江が出演した『ポケベルが鳴らなくて』は92年7月に放映開始)を交換して、プリクラを撮って、それを全てひとつのメモ帳にまとめるんです。僕らの仲間内ではA.P.C.のメモ帳をお揃いで持ってました。そのうちに友達の輪が広がりまして、初めて会った奴でも「えっ、熊本なん?そんならアイツ知っとる?」でだいたい話が通じるようになりました。それで、お金があるときはみんなで「decadent Deluxe」(※読み方は「デカダン・デラックス」。福岡市中央区舞鶴のマジックスクエアビル内にあったクラブ。2011年11月に閉店)に繰り出したりね。

サトウ:プリクラ手帳は男子校出身の僕でも持ってましたからねぇ。

コガ:その頃、ファッション雑誌だと、おそらく日本で始めてストリートスナップを売りにした「FRUiTS」(レンズ/ストリート編集室が発行。1996年に創刊し、2017年に休刊)が流行ったんです。「STUDIO VOICE」を置いていたトンガった本屋さんでは、創刊当時から「FRUiTS」を扱っていて、それを手にとってパラパラとページをめくった瞬間から、いや、なんだこりゃ!?って。

サトウ:原宿のストリートスナップを見たわけですね。

コガ:ええ、撮影場所は基本的に原宿を中心とした「路上」だけで、モデルは全員素人。スタイリングもプロが手がけるわけではなくて、それぞれが自分らしく思い思いに着飾ってる。いまの若い子たちは、インスタに自撮りしたコーディネートを載せるのが当たり前なので分かりづらいかもしれませんけど、当時の感覚からすると「FRUiTS」はあまりにも斬新で、革命的だったんですよ。「MEN'S NON-NO」みたいに、高級ブランドをバシッと決めた専属モデルの写真を載せるのがいわゆるファッション誌のイメージだったのに、「FRUiTS」は路上で、しかも、素人を撮っていた。クリストファー・ネメス、ビューティービースト、卓矢エンジェル、ミルクボーイ辺りが雑誌のアイコン的なブランドでしたが、着こなしは各人各様で。文字通りストリートカルチャーを扱っていたし、大人の手が入ってない感じが信頼できた。その「FRUiTS」が創刊してまもなく、福岡にも撮影にやって来たんですね。表紙に「福岡スタイル」と書かれている号で(冒頭の雑誌、実際には1998年4月号)。僕らが警固公園に溜まっていたら、編集さんに「この辺でスナップ写真を撮りたいんだけど」って声をかけられて、話を聞いていたら「えっ!『FRUiTS』!?」という。結局、僕も載りましたね。

サトウ:掲載された写真を見てるとやっぱり時代を感じますけど、とにかくファッションが好きという熱が伝わってきますね。で、この黒ずくめのモデルがコガさんですか? 失礼ながらバットマンのような(笑)。

コガ:いやぁ、当時はゴシックファッションにハマッてて、真っ黒なスカート履いたり、マントを羽織ったりしてたんです(笑)。で、結果的に僕たちのグループはみんな雑誌にスナップを掲載されまして。当然ながら、雑誌が発売された週末を見計らって、掲載されたのと同じ服装で警固公園に集まるわけです。そうすると、周囲の若い子たちに「『FRUiTS』に載ってた人たちだ!」って注目されて、ちょっとした有名人みたいな感覚でした。もうひとつ、僕らの間で流行っていたのがフリマ雑誌。着なくなった服とか、東京に旅行したときに裏原で買ったブランド品とか、そういうものを「QUANTO」(※読み方は「くあんと」。個人間売買情報誌としてネコ・パブリッシングが創刊。同種の雑誌にリクルート系の「じゃマール」など)に投稿して、売ってたわけです。いまで言うメルカリです。でも、メルカリと違ってフリマ雑誌は月刊誌なので、月に1回しか情報を載せられない。うーん、なんとかできないものかと考えて、それなら警固公園で僕らがフリマを開いて売ろうぜ、と。友達とかも大動員して、お互いの服とか靴を売り買いしてたら、さっきの「FRUiTS」のお陰もあって、だんだん僕らのフリマ目当てに若い奴らが公園に集まるようになって、ついに西日本新聞(※福岡県を中心に九州地区で発行されるブロック紙)まで取材に来ましたからね。

サトウ:ええっ、予想を超える展開・・・。

コガ:その流れで百貨店に店も構えましたし。

サトウ:ええーっ!?

コガ:フリマでお客さんの嗜好というか、若い子のニーズが掴めるようになると、「あれ? もしかして古着じゃなくて、自分らで作ったらもっと儲かるんじゃね?」って考え出すわけですよ(笑)。しかも、当時はインディーズブランドが大ブーム。20471120とかアンダーカバー、卓也エンジェルと、いくらでもあった。それで、自分たちでTシャツでも作るか、と。いま振り返れば、そりゃもう酷いもんですよ。好きなバンドのCDジャケットを拝借したり、英語の辞書と格闘してなるべくカッコいいスラングを探したりね。でも、それがまた当たりまして(笑)。

サトウ:ちゃんと当てるのが凄い。

コガ:警固公園のすぐそばに「岩田屋」という福岡では有名な老舗百貨店があるんですけど、そこが96年に「Zサイド」っていう若者向けのブランドばかりを集めたファッションビルを新設したんですよ(※「Zサイド」の読み方は「ジーサイド」。Zサイドだった建物は現在、「岩田屋本店」となっている)。その頃、フリマをやってた僕らに岩田屋の関係者から「君たちの売り場を作ってあげるよ」と声がかかって。最初は驚きましたけど、まぁ、調子に乗っていたから「これはイケるんじゃないか」と思ってね。

サトウ:完全にサクセスストーリーの序章になってますけどね。

コガ:でも、僕はデザイン画も描けないし、ミシンもロクに使えないわけです。そこで、フリマを一緒にやってたグループに、ひとりだけ「香蘭(ファッションデザイン専門学校)」に通ってた女の子がいて、その子をデザイナーということにしてブランドを立ち上げました。それからまもなく、とんとん拍子にZサイドの地下1階に売り場ができたんです、僕らの。

サトウ:ここまで来ると、「この店が、後に世界を席巻する気鋭のブランド○○の1号店だった」というナレーションが聞こえてきます。

コガ:残念ながら、そういう展開にはならなかったんですけど、正直なところ、そこそこ売れたんですよ。

サトウ:売れたんだ!

コガ:佐賀から天神まで特急で来られるくらいには儲かって。あと、週末はVIP扱いで天神のクラブで遊べるようになりましたし。でも、まぁ、そこがピークでしたね。面白かったのは間違いないんですが、僕らがファッションブランド一本で食べていけるとは思えなかった。その頃になるとブランドをどうするかよりも、大学受験を真剣に考えるようになってました。

サトウ:なるほど。ちょっともったいないなぁと思いつつ、コガさんのやりきった感じも分かる気がしますね。ここで改めて伺いますが、コガさんは90年代にどんな印象をお持ちですか。

コガ:その後に進学で上京した身としては、90年代は東京と地方の文化的な格差がいま以上に大きかったと思います。特に、面白い「大人」との出会いという面で東京は圧倒的でした。とはいえ、佐賀の田舎町出身の少年でもそれなりに刺激的な十代を送れたわけですよ、90年代は(笑)。確かに、これだけネットが発達すると、フリマを開くにしても、ブランドを立ち上げて自分がデザインした服を売るにしても、スマホがあれば事足りますよね。ただ、僕らの場合はそこまでの「過程」こそがお祭りだった。街に繰り出して初めて体感できる、知らない誰かとの出会いとか、何か起きるかもしれないという期待とか、そういうストリートならではの感覚に胸を躍らせた。若い子にもそういう楽しみを経験してもらいたいな、と思いますね。

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