見出し画像

『来る。』何かが。

 ※『来る。』ならびに原作小説『ぼぎわんが、来る』の内容に触れる記述があります。気にされる方はご注意。


 ということで久々の投稿はまた映画の話。

 原作の小説『ぼぎわんが、来る』が好きだったので、期待して見に行ったんですが、実写化にあたってかなり大胆な改変が施されているタイプの映画で、実は当方、同じような目に別のホラー作品で出くわし、数年単位で遺恨になるレベルの恨みを抱いた経験がありました。

 今回は大丈夫。というのも、たぶん「改変の規模は大きいものの、作品のキモになっている部分については触っていない」感覚が大きかったか。

 原作の『ぼぎわんが、来る』は、澤村伊智先生のデビュー作であり、なんともいえない読み味のホラーです。そのキモは、作中でジャンルが二転三転して、最終的にはまるで別物じゃねえかというところに着地するという部分にあり、しかも実話怪談風ホラーで始まったのが、陰湿な人間関係を濃密に描きこみつつ、最終的には 強烈に藤田和日郎ふうのパート でシメになるという、なんともはやなジェットコースターっぷり。

 で、映画『来る。』では、ストーリーラインの改変がされているものの、この 作中でのジャンル遷移を繰り返す という特色はそのまま残っている。ショッカースリラーなんかからサイコホラーっぽいところなんか経由して、なんというか凄まじいシーンへ収束していくんですね。そしてもうひとつ、以降発表された澤村作品にも続く重要な要素(ほぼほぼこれがベースライン)である陰湿な人間関係は山盛りに描写されている。

 つまり、ぼくが見るところではエッセンスは残った上で、きちんと改稿の手が入っている。これは、僕としてはありがたかったわけです。

 失われたものとしては、繰り返しますが 藤田和日郎 です。で、少年漫画的なものが失われて 洒落怖的実話怪談 のイロが濃く出た結果、すっきりと終わるという要素もまた失われている。あとヒロイズムも消えている。原作だと 蒼月紫暮的な立場 (通じてほしい)を貫いた比嘉琴子も、ばけもの相手に意地を張ってこどもを助ける通りすがりのおじさん枠(そのまんまだな)の野崎も、ひたすら後味の悪い実話怪談世界に巻き込まれている。

 洒落怖のお決まりのあれです。「気付いたら○○の外にいた。あれからだいぶ経つけれど、何だったのかわからない」。

 で、少年漫画的な味を抜いたところに、クソの山のような人間性を山盛りに突っ込んできている。これは主役級の人物もそうなんですが、個人名のない登場人物全般についてもそうで。笑顔で応対しながらソトへの陰口を叩き続ける田舎のイエ、楽しそうにしている人間を邪魔できない・付き合いがあるから台無しにできないという理由だけでなんとなく楽しそうなパーティ。参加者全員、あ、これ○○のこと見下してんなあ。みたいな空気が常に漂う団欒の光景が、吐き気がするような密度で繰り返される。正直、ホラー描写よりあっちのがキツかったです。

 比嘉姉妹シリーズのキモは、この胸糞の悪くなるような状態を最後に来たヒーローがぶっ壊していくところにあるんですが、まあそれがないとどうなるかって話ですね。キリカとかなどらきに入ってる短編の方向に振り切った塩梅です。要するに胸が悪くなる。

 で、何故かこのヒーロー要素が(半ば映画オリジナルキャラの) 柴田理恵に集中している という。なのでおそらく、 世界一かっこいい柴田理恵 が見られる映画になっています。

 柴田理恵のことはおいておいて、それ以外ではとにかく胸糞の悪い時間を過ごせることは保証します。一緒にオムライスの国へ行ってみませんか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?