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実写阿知賀編のこと

 ということで、まだ、実写映画版・阿知賀編の話をします。
 今回は本編バレが大量に含まれるため、その点ご注意ください。

 『咲』本編が何の話かというと、遊ぼう、という話だと僕は見ている。そういう話は以前書いた記事で触れていて、要するに今回も似たような内容の繰り返しではある。ただ、原作者監修が相当入ったという映画を見て、なんか近いとこあるかもなあ、と錯覚したくもなったんである。

 以前の記事、というのは下記。

 ざっくり纏めるに、『咲』は「遊べない誰かを、輪の中に引き入れる」構図が繰り返されてるんじゃないか。ということを書いている。

 そして、高鴨穏乃は「また遊ぼう」と言ったのだ。

 阿知賀女子に焦点を絞って、映画ストーリーを追っていくことにしよう。

青春の光と影 -十年前の明暗

 映画阿知賀編は、再会から始まる。

 小鍛治健夜プロと、赤土晴絵監督とが再会するシーンからである。

 夏の景色のなかに、呆然と立ち尽くしている小鍛治健夜。偶々通りすがり、その姿に立ちすくむ赤土晴絵。どちらも演者が大変に顔がよく、特に幽鬼の様に立つ小鍛冶プロは素晴らしい出来なのだが、まあ、それは横におこう。

 二人の間に会話はない。ただそこには、十年前の敗北が蟠っている。
 十年前。麻雀女子インターハイ準決勝。
 小鍛治健夜が優勝し、そこから永世七冠に駆け上がる契機となった大会。
 赤土晴絵が打ちのめされ、不整脈で倒れるほどのトラウマを受けた大会。

 一言もないまま、それどころか勝者であり続けた小鍛冶健夜は赤土晴絵に気付いたかどうかすら怪しい様子で、二人は別れる。

 勝者と敗者の間、ここでは、あきらかに埋まらない距離が描写されている。
 物語はここから始まる。

勝敗の告げるもの -阿知賀の問題

 原作漫画通りに初戦を快勝(ほぼ省略)し、阿知賀は二回戦へ出場する。
 そして、同卓した千里山女子によって、徹底的に打ちのめされる。

 流れからいくと。
 松実玄は、待ち続ける人物である。
 ドラを大事に、という母の遺言を守って、ドラ爆体質になった。
 麻雀教室が解散して、三年以上も部室の掃除を一人で続けていた。

 松実玄は、ドラを集める上ドラを手放せない、という弱点を抱えている。
 つまり、ゲーム的に言えば常に「手牌が短い」状態で戦っているも同然。
 これを狙い撃てる敵手には、いいように弄ばれてしまう立場である。

 案の定というべきか。
 天敵とも言える千里山のエース、園城寺怜の手で、松実玄は大量失点。
 その後も戦績はいまいち冴えず、ギリギリの内容で準決勝に進出する。
 上位2チーム進出でなければ、どうしようもなかった内容である。

 それでも準決勝進出を喜ぶ部員たちに、赤土晴絵は告げる。
 準決勝、この調子では勝てないと。客観的に見れば論外であると。
 正直、あきらかに教師がこのタイミングで生徒に向ける言葉ではなく、また苛立っている様子は、明日も試合を控えた生徒に向ける態度ですらない。
(またここの演技が冴えているんだが、趣旨ではないので置いとこう)

 自分が負けたからだ。と松実玄は繰り返す。
 さらに、赤土晴絵がプロのスカウト(と、部員たちは認識している)と話しているところを目撃するに至って、その自責は頂点に達する。
 勝てなかったから。自分が負けたから、赤土晴絵は見捨ててしまうのだ。
 負けてしまったから、別れを呼び込んでしまったのだ。

 結果としてそれは誤解で、赤土晴絵はプロのスカウトを断ったとすぐに判明するのだが、ここで松実玄が抱いた不安と恐怖は本物である。

 また、教え子たちを見捨てる気は更々なく、それでもきつい態度をぶつけた赤土晴絵、という像もここで見えてくる。

 このふたつは、別人の抱えたものでありながら、実は同じ「問題」の側面を共有している。

 いかにも。阿知賀の抱える一つ目の問題は、松実玄を通して姿を見せる。

 それは、別れることへの恐れである。

第一の問題 -松実玄と「別れ」

 翌日決勝戦。松実玄は、天敵・園城寺怜に加え、高校生最強である宮永照と同卓となる。団体先鋒戦、ここで迂闊をすれば後ろに回る前に試合が終わる。

 やはり、ここでも松実玄は打ちのめされる。
 だが最後の最後、得意手を封じてまで宮永照を封じた園城寺怜の姿に感じた松実玄は、自分の制限、「ドラを切れない=別れられない」を能動的に捨て、他の同席者の後押しを受けて、宮永照に一矢報い、先鋒戦を生き延びる。
(ここも細かいとこは置いとくけどいいシーンが連発する。圧倒的に仕上がった花田煌といい燃え尽きて死にそうな園城寺怜といい素敵なのだが置いとく)

 問題は、この決断の内容だ。

 松実玄は、別れた相手をひとり、待ち続ける人物である。
 それが母との約束を破って、一時の別れを決断する。

 別れるのは、またいつか出会うためだ。
 これが阿知賀に与えられたひとつめの問いであり、答えである。

 その別れが、自分で決断したものだとしても、或いは力及ばぬ結果でも。
 再会を信じ待っていれば、またどこかで出会うことができる。

 見落としてはならないのは、この今を「待つ」が静的ではないことだ。
 松実玄は、一人、部室の保全を続けていた。
 信じて動き続ければ、いつかまた出会うことができる、のだ。

第二の問題 -鷺森灼と過去の失敗

 次鋒、中堅戦もリキの入った描写が続くのだが、今回僕の語りたいテーマに少し遠いので省略する(実際観て貰えれば画面からほとばしる執念を感じて貰えると思うところであり映画館で見たい)。

 副将戦。鷺森灼が控室を出る前のやりとりが、第二の問いそのものである。

 十年前、赤土晴絵が準決勝で敗れた時のネクタイ。縁起が悪いからやめたほうが、と言う赤土晴絵に対して、鷺森灼は大丈夫だと返す。今度は私が、このネクタイを決勝まで連れていく、と。

 テレビドラマのほうで描写があるけども、このネクタイは十年前、敗北して沈み込んでいた赤土晴絵が、敗戦のフラッシュバックに襲われて倒れたとき、そこにいた鷺森灼に手渡されたものだ。

 赤土晴絵はまさに、小鍛治健夜に敗れた傷でひどく苦しんでいた。自分への呪いで、文字通り身動き一つ取れなくなっていた。きっと、自分はだれからも認められないと思っていた。

 赤土晴絵にとっての十年前は、きっと呪わしい記憶でしかなかった。
 全国準決勝まで行けた、ではない。「準決勝で敗れた」という記憶。
 だからこそ、準決勝前夜に荒れた感情を抑えきれなかった筈である。

 鷺森灼は、それでも赤土晴絵をかっこいいと信じて、つよい人だと信じて、受け取ったネクタイを宝物に、十年ずっと大切にしてきていた。

 鷺森灼は、赤土晴絵が見せてくれたものをまた観たかった。いち選手として生きる赤土晴絵の姿に憧れていた。それが赤土晴絵本人にとって、忘れがたい呪いであったとしても、確かに鷺森灼にとっては消えない輝きだった。

 その継承は、原作漫画よりさらにわかりやすい形で行われる。
 十年前、赤土晴絵が怯えで手を縮めたために和了れなかった手を、最高形で和了りきる。

 呪いが解けた筈である。

 意味のない事はない。呪わしいだけのことはない。
 どこかの誰かが、あなたの輝きを知っている。
 敗北は終わりではない。それもまた、次の出会いに繋がっている。
 これが、第二の問への答えである。

最後の問い -高鴨穏乃と大星淡と鶴田姫子と清水谷竜華、或は小鍛治健夜

 高鴨穏乃は、『咲』シリーズ全体を通して、下手するともっとも行動原理の分かり難い人物である。

 「また遊ぶんだ」。その言葉一つで、阿知賀麻雀部を無理矢理再始動させ、全国大会を駆け上がってきた。内容は明瞭だが、それでなぜ、そこまで強力な動機として機能するかという意味は、何とも判じがたいものがある。あった。

 ただこれは、映画版での再編で、かなりわかりやすく見えてきた観がある。

 大将戦は、圧倒的な支配力のぶつかり合いとなる。理由はそれぞれ。大星淡は強烈な自負のため。鶴田姫子と清水谷竜華はそれぞれ背負った絆のため。

 控室を出るとき、赤土晴絵は高鴨穏乃に「楽しんでおいで」と声をかけた。ここから先は、自分も行けなかったところだから。「山頂を目指すだけじゃない」「山では色々な遊び方がある」。鷺森灼がリレーを果たした後のこの発言は、ネガティブな要素ばかりではなかったはずである。

 一度の敗北は、完全な終わりではない。そう悟ったから、ここで負けたら、自分と同じ道に引き込んでしまったら、そういった恐怖が薄れたからこそ出た本心であるように見える。けれど高鴨穏乃は、決勝へ行くという。一緒に行くなら赤土先生がいい、と。麻雀の先生が赤土先生でよかったと。

 決勝へ連れて行く、ではない。そこへ連れて行きたいと思っているのは鷺森灼で、高鴨穏乃は最初から、旧友とまた遊ぶことを目標にして、この高い山を登り始めた。

 だから、第三の問は第二の問の答えからつながる。
 一度の敗北が終わりではないなら、勝つことに意味はあるのか?
 ある。それはもちろんある。けれど、それはどんな形をしているのか?

 決勝。激戦を制したのは高鴨穏乃と大星淡であり、大星淡は決勝で、最初は名前すら覚えていなかった(かなり強調して描写されている)高鴨穏乃への復讐戦を誓い、敗者たちは涙を飲んだ。
(本戦から終了後の控室まで、顔がいいし演技もキレてるしで最高なのでまだ映画館で見てない人は是非。この記事書いてる段階では、だいぶ上映回数減ってるがまだまだかかっているはずである)

 そして、何もかもが終わったあとに。すっかり陽の落ちた世界で、赤土晴絵と小鍛治健夜、十年前の勝者と敗者が正しく再会する。

 小鍛治健夜は言う。「どうして勝ちと負けがあるのか」と。赤土晴絵の答えは、「わからないけど、麻雀を続けていたから出会いがあり、ここにいる」。そして、その続きが、第三の問の答えでもある。「またプロを目指すことにしました。この子達の優勝を見届けた後に」。

 なぜ山を登るのか。高鴨穏乃はかつて、ひとりで山にいることが多かった。ドラマ版では、新子憧とともに山に入り、自分に眠っていたものを見出した。トーナメントという山、プロリーグという山。そこに踏み入るとき、ひとは、決して一人ではない。そこには、自分以外の誰かがいる。

 勝敗で別れるものを山と例えるなら、勝ってより高みへ登るのは虚しいことではない。より高い場所にいる相手と、遊ぶことができる。もっと言うなら、今この時、そこにいる相手と遊びたいなら、勝ち上がり登っていくしかない。この「山を登る」行為は、そのまま登った先にいる相手と「遊び」を成立するための前提でもある。対戦ゲームは、実力が拮抗するほど面白いからだ。

 山の頂きを目指すだけが目的じゃない。けれど、遊びたい相手がいるなら、当然そこまで登りたいと願う。勝利そのものは目的ではない。最高の思い出を手にするための道のりである。

 赤土晴絵も高鴨穏乃も、いつかの再会のために山を登り始める。
 登山口で始まった物語は、登山口の光景で終わる。
 また遊ぶんだ、という宣言は、直接的にこの答えそのもの。
 つまり、気恥ずかしい言葉で表現するなら、青春である。

ジャスト・ア・ゲーム -青春のひとときに

 別離は不可逆ではない。敗北は無意味ではない。ただ、いまこの時を得るためには、必要なだけ勝たなければならない。それでも、もしとどかなくても、諦めずにその道を歩き続ければ、いつかどこかで再会することができる。

 総じて、映画阿知賀編は、赤土晴絵がもう一度歩きだすまでの物語である。

 だからこそ、最後の最後で敗退した二校にもまた、未来があるということを思わせてくれる。「いま」を得られなかったことを泣いて、思い切り泣いて、泣くだけ泣いたらまた歩き出せばいいのだ。道は、再会に続いている。

 赤土晴絵と小鍛治健夜は、道のりの答えを見せてくれている。
 十年前のインターハイ、そこから続く物語の決着と、次の物語の幕開けを。

 麻雀はゲームである。前作ドラマ版でも、原村和の父は「運任せのゲーム」と表現していた。けれど、そこに意味はきっとあるのだ。かけた思いがあり、出会った人がいて、また会いたい人たちがそこにいるから。

 だから、準決勝で終わる、といういびつな構成をしたこの作品だからこそ、その道程の意味を語るため、実写映画の阿知賀編は、赤土晴絵の物語として語り直されたように思うのである。

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