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大文字の『問題』という怪物
いろいろともやもやしていたことが、少し言語化できそうなので備忘録を兼ねて書き込んでおく(いろいろあって、ほっとくと自分の悪意敵意の類が普通に暴走しそうなジャンルなので、自戒の意味もある)。
なお、言い訳として、これは論文のたぐいではない(だから当然リファレンスもついていない)し、記憶を頼りに書いている雑想であるという前置きはしておく。卑劣で何が悪い。
ここに、なにか物語があるとする。
それが「おもしろい」とはどういうことだろうか?
まあ、これは難しい問題で、少なくとも僕には答えられない。自家撞着していいなら「読んでおもしろかったものが、おもしろい」でいいんだけど、少なくともそれはこういう場合に出てくる問への答えじゃないだろうし。
だから、もう少し話を詰める。
ここに、読んであなたがおもしろかった物語があるとする。
最後のクライマックスシーンは、これまで登場してきたキャラクタが総出で揃って大盛りあがりで、読みながらちょっと涙ぐんだりもしていた。
ところがよく見ると、そのキャラクタの中に話の途中で死んだはずの人物が混ざっている。別に説明もないし、演出でこうなってるのかミスでこうなっているのかよくわからない。
要するに、作品に粗がみつかった。
これで、物語自体が「おもしろくなかった」ことになるだろうか?
正直、意地の悪い問の立て方だ。前提として「おもしろい」というものがなにか一つ気になる(かもしれない)点があるから「おもしろくない」ことになるというのは、話の前提自体を御破算にしてしまうやつだし。
だから、これは僕の立場の話をするための枕ということになる。
少なくとも僕は、ある話の粗が気になるのは、その話自体が気に入らなかったからだと考えている。
ただし、作中に一点何かものすごく気になる点があるから、話自体が素直に読めないという事態も発生するだろうと思っている──たとえば、一点矛盾を見つけてしまったから、それがどんなに名作だろうと受け入れられない、という人はいるだろう。ただし、それは少数派……いやこれだとちょっと柔らかすぎるのでもう少し言うと、かなり特殊な人間の話のはずだ。
要するに、ここまでが前口上だ。
『後期クイーン的問題』という風潮
よく言われている後期クイーン問題というのが何なんすか、という話、既にマニアがさんざん解説しているけれども、ざっくりいうと、
作品に描かれたことが真だと、作中では証明できない。
という内容にまとめられる。
なんで証明できないかというと、その気になれば記述はいくらでも増やせるからだ。たとえば大抵の作品では、「ある人物が実は生きていた。作中で確認された死亡の証拠は、身を隠すための偽装だったのだ」という記述を書き加えることができる。いやいや、それどころか「この作品は、ある人物の妄想を書き綴ったものでしかなくて、ほんとうは何も事件なんて起こっていなかったのです」と書き加えることができる。
極端な話、こういうちゃぶ台返しが最後に書き加えられないという保証は誰にもできないよね? というのが、『後期クイーン的問題』である。
いや、もっと繊細な話だよ! という反論はなんぼでもあろうが、それを取り扱ってる作品群が尖りまくったあげくこっちに突き抜けてったんだから仕方ない。僕は悪くない。あの手の作品好きでした。先年亡くなった某先生の書かれてた作品群、もしかして続編が出るかと思って待っていました。
で、このよくわからん(だろう)問題意識からスタートして、作品自体にメタレベル「真理性」を付与する手法で「真理性」を担保しようとする手法があれこれ模索された。
たとえば作中作を登場人物が推理する過程に気合を入れて描くとか、絶対に正しいという保証が作中的になされてる内容をつくる(たとえば超自然的なパワー、超能力とかで「それが正しい」という保証を用意する)とか。
もっと攻めると、「正しいとは保証できない」という内容そのものを仕掛にした作品なんかもごろごろ出てきた。
待ってくれ、と思うひとがけっこういそうな話だ。
なんでそんなことするの?
たぶんこの「なぜ」はごく単純な疑問から出てきている。
それをやると、どうして話が面白くなるの?
そう。普通に考えて、後期クイーン的問題の解決は、話を面白くしない。
ミステリ(この場合はまあ概ね本格ミステリ)とは娯楽小説である。
なんでそれで、面白くなる要素とは思えないものが取りざたされたのか?
そもそも『問題』の問題意識とは?
実はこの話、ものすごく単純に答えることができる。
後期クイーン的問題の出どころは、書き手側だったのだ。
そもそもこの問題を取りざたしていた(とされる)エラリイ・クイーンはいわゆるパズラー(いわゆる本格ミステリと同じ意味と思っていいと思う。謎と手がかりが提示されて、その解決過程でもって読ませる作品を指す)の名手といわれる人で、長編短編織り交ぜてパズラーを書いて書いて書きまくった。そのうえで、作家人生後半で「でもこれ、謎と解決の話を厳密に扱うなら、こういう問題もこういう問題も出てくるよな…」という感じの作品群を発表したのです。そういう話だったはず。だから「後期」なんですね。
で、これを「後期クイーン的な問題」という形式で取り出したのが日本のミステリ作家の法月綸太郎先生。もっとも最初の段階ではこうは呼ばれてなかったそうで、のちにかなりの数の評論文の中で「こういう問題がある」と取り扱われていくうちに、この名前で呼ばれるようになったという。
呼んでたのは誰か? というと、ミステリ作家とミステリマニアだ。
ミステリにはミステリマニアがよく出てくる(いや、ほんとによく出るんですよ。読まない人には冗談かと思われそうだけども)し、ミステリ作家も出てくるので、この用語は作中にもちょくちょく登場するようになった。
現実のミステリ作家も意識することが増えたので、そういうテーマを扱う作品もたくさん書かれるようになった。
どういう話か。繰り返しになるが、ぶっちゃけてしまおう。
『後期クイーン的問題』は、あくまで書き手側の問題だったのだ。
ミステリマニアのミステリの読み方
おかしいじゃないか。という話に当然なる。ミステリマニアは書き手ではないじゃないか。
案外そうでもないんですよ(重篤なミステリマニアはミス研なりに行って書き始めることが多いからね)みたいな冗談はさておいて、ここには読者側のちょっとした特殊事情が絡んでくる。
最初に「粗が気になるのは、作品がおもしろく感じられなかったからだ」と書いた。といって、ミステリマニアがミステリを「おもしろい」としては読まないんだ、みたいな馬鹿な話をしたいわけではない。
問題は、そのあとに続く「ひとつ大きく気になる点があると、作品自体を素直に読めなくなってしまう」という内容の方だ。
ミステリマニアは、この『問題』で取り扱われている内容を気にしてしまう習性(ひどい言い方だがご容赦願いたい!)がある。そしてこれは、作家側の視点とたぶんかなり近い。つまり、プロットの精密さや設定面の完成度を問う、技術的な観点からの評価がかなり強く出てくるという意味で。
これが、『問題』が大きく取りざたされた理由だと、僕は考えている。
『読者への挑戦状』の功罪
なんでマニアはそんなもん気にするの? という話になる。
これも割と簡単で、ミステリマニアは作品を読みながら推理しようとする傾向があるからだ。
それこそ例のクイーン先生がはじめた(はずですよね?)読者への挑戦状という習慣からして、「証拠は出揃った。犯人は誰?(もしくはなぜこんなことが? とか、どうやってこれをやった?)」式の問を読者に投げかけるものなわけで、そういうジャンルを好んで読むような人は当然、作品の記述をよく読んで、最後の章に入る前にそれを当てようとする傾向が出てくる。
つまり、作品自体の娯楽としての面白さとは別に(ここはとても大事)、パズルとしてのおもしろさを求める人がかなりいて、この部分での「良さ」を云々するのはプロットや記述の細かな検討から出てくるので、どうしてもそこが作者側の視点と近くなってくるわけだ。
おっかないことだが、細かい矛盾があったり記述がおかしかったりすると「パズルとしての」ミステリ小説はうまいこと読み込めなくなる。
だから「どこまで正しいか?」を問題にする『問題』は、ミステリマニアにとっても関心事ということになったのだ、と僕は考えています。
(そうじゃないという生証人の方もおられるでしょうが堪えていただいて)
マニアってめんどくせえな? だからマニアっていうんですって。
自分はマニアじゃない、何も面倒なことはないと思ってるあなたにだって一家言あるジャンルのひとつやふたつあるでしょう。食べ物の好みとか。
そういうとこでひっかかっちゃうから、面倒だし大変なんです。たぶん。
ミステリはマニアだけのものか?
ところで僕は、あまり頭がよろしくない。
なんでこんなことを言い出したかというと、ミステリを読むのは好きだが犯人を当てられたためしがないからだ。それどころか、一年前に読んだ作品の展開やらオチをすっかり忘れてるなんていうこともザラである。
自虐というわけではない。いや自虐のたぐいなんだけどそうじゃなくて、こういう人間もミステリを読んで面白いと思うのだという話である。
実際に、真相を当てるために一文一文を精査して読みすすめる、みたいな読み方をしている人間は、そこまで多くないんじゃないかと思う。
なぜかって、それにしては、ミステリは売れすぎているからだ。
大ブームが過ぎ去っても、このあいだちょっと調べたら、たとえば新刊が月に百種類ばかり出ている。本屋の平積みの一定割合はミステリだし、大作映画になる国産作品(つまりある程度売れている作品)にだって毎年一本や二本はミステリが顔を出す。
これだけいる購買層(つまり、ある程度ミステリを「おもしろい」と思う人たち)のどれだけが、メモ帳や付箋片手に読んでるかというと、そりゃあ少数派なのじゃないかと思うわけだ。
だって、そんなことをしないでも面白いもの。ミステリって。
ミステリの根本構造
ミステリとは何か。
(まあ、ホラーもスリラーもミステリだよみたいな話はおいといて)
端的には、「謎が提示され、それが解かれる過程を見せる作品」だ。
で、ここが重要なんだけども、その過程は必ずしもパズラー的である必要はない。たとえばそれは超人的な推理力や調査力を持つ主人公の冒険により解明されても構わないし、地味に足で稼いだ調査員の聞き込みが浮かび上がらせてもいいし、それどころか活劇の末に最後のピースが見つかって「あ、そうだったのか!」となったって構わないものなのだ。
大雑把すぎると思われるかもしれないが、「謎が解かれる」おもしろさを演出するには、どんな手だって使っていい。あんまり派手に解体しすぎると物語一般の話になってしまうけど、それくらいプリミティブな内容なのだ。
大概の物語は「ミステリ的」だし、「ミステリ」として売られている書籍のかなりの割合は今も昔もこの「謎が解かれる過程をクライマックスとして読者に見せる娯楽作品」一般のことである(それこそ、偉大なる諮問探偵もそのジャンルに分類していいんじゃないですか。あ、石を投げないで!)。
だからこそ、今だって元気に新刊が出続けてるんでしょうね、と。
じゃあ「問題」とは何なのか?
この雑文の最初に立ち返る。それじゃあ『問題』の意義とは何なのか?
僕の見るところでは、「作者にとって取り組みがいがあるテーマ」だ。
そのテーマとの格闘で、僕の知る限りですらおもしろい作品がたくさん、生まれてきている(半可通ミステリ読みとして作品名挙げたくないってのがもどかしいけど、あるんですよ実際たくさん)。
しかし、取り組みがいがあり、面白くなるテーマである一方で、『問題』を意識していない作品がおもしろくならないような最低の条件かというと、これはそんな話ではありえない。あるわけがない。
いや、世の人の大半はおもしろくもない作品をうまいうまいと読む未熟者ばかりなんだという立場なら話は別なんだろうけども、そんなことはない。
だって精緻に読み込もうとする人以外にだって、ミステリはおもしろい。
挑戦状に真顔で考え込まなくても、そこまでの展開がかなり頭から抜けていても、怪しげな謎に戸惑う中盤の展開も、そこから探偵が快刀乱麻を断つクライマックスもおもしろいんです。
実際おもしろいんですよ。いろいろ読んでみませんか?
キンドルアンリミでクイーンの翻訳がごっそり入ったりしてますし。
ホームズの翻訳版は無料公開されてたりしてますし。
いい時代になったもんだと思います。
国産だと宮部みゆき先生の長編とかいいですよ。あと個人的なおすすめだと三津田信三先生とかですね。いやこのへんは余談。
ともかく、何の話だっけ。そうそう、『後期クイーン的問題』は技術的な側面から読んだときのおもしろがりかたを下支えする視点であって、普通に読んだ場合の面白さの前提条件ではない。という話がしたかった。
現場からは以上です。
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