【大河ドラマ連動企画 第21・22話】どうする○○(長篠の戦いで散った名将たち)

※後追いで追加中。

♪なにはなくとも 強右衛門
鳥居強右衛門というスネ夫とドラえもんを足した中身は劇場版ジャイアンみたいな勇士が活躍した。突然解像度が上がる長篠城CG。最後に挙げられた強右衛門磔の旗。長年「逆さ磔」と「磔」の間で議論が分かれていたようだが、近年の研究で「磔」が正しいという説が有力なようである。歴史考証陣の意地を感じる回である。
ネットを見ていると、亀姫の輿入れの件をなんで相談していなかったのか、という意見があるが無理からぬことである。ただでさえ二人とも岡崎にいて物理的に距離がある上、瀬名が嫌がりそうなことを書状で相談する、というのは流石に厳しい。遠江も三河も凄まじい緊張感にある上、家康が体調を崩したりしていたので個人的に会いに行くのも難しい。2回前の流れもあり、なんとなーく瀬名に話しづらいなーという心理的距離もある。みんなも、重大なことはちゃんと家族とコミュニケーションを取ろう。

と思ったら続く第22話は演出がやたら暴走している印象。突然ダチョウ倶楽部が始まる織田本陣、身内ノリで騒ぐ三河勢に置いてけぼりの万千代、今更の三段撃ちにより山県昌景は馬防柵に辿り着けずに討死。久しぶりに初期の頃のガッカリ感が帰ってきた。この落差はマジで何なんだ。
人物描写は徐々に深みを増してきた…と言いたいが、信長のキャラが月代剃ってからぶれている、というか、別人というか。数回前まではちゃんと「岡田信長」だったのに、最近はテンプレ的な「織田信長」になっている。それ以外の人物(秀吉、勝頼)はキャラがまだブレていないが…。
そして、なんだか岡崎周りがきな臭い。まさか本当に武田に内通するつもりなんじゃないよね、信康。

今回は長篠の戦いで討死した武田家臣を何人か深掘りしようと思う(断じて前回ネタがなくて困っているうちに期限切れになったわけではない)。

山県昌景

武田家臣団の「武」担当の代表格として取り上げられたのが山県昌景である。彼と後述する内藤昌秀、馬場信春、そして高坂昌信の四人を合わせて武田四天王、あるいは武田四名臣と称することが多い。
昌景は元々武田家の家臣である飯富氏(おぶ-し)の次男として生まれたとされる。兄も同じく武田家の家臣として活躍した飯富虎昌(おぶ-とらまさ)である。何を隠そう、山県昌景、そして井伊直政へと継承される赤備えの元祖はこの虎昌と言われている。兄の虎昌はやや世代が上なこともあり武田信玄の父・信虎の代から仕えていた宿老であったのに対し、弟の昌景は次男で信玄と世代が近かったこともあり、信玄の近習からそのキャリアが始まる。ただし武勇は兄に劣らず、天文21年(1552年)には150騎の侍大将に抜擢される。彼に転機が訪れるのは、永禄8年(1565年)の義信事件である。元々不仲であった信玄と嫡子・義信の対立が深刻化、義信に謀反の嫌疑がかかる。これに飯富虎昌が加担していたとの疑惑があり、虎昌は処断、義信は閉門とされる。一説にはこの際に虎昌の謀反を信玄に告げたのは昌景だという。
これに伴い、昌景は虎昌の赤備え軍団を引き継ぎ武田家臣団の武の中核をなすと共に、断絶していた名跡・山県氏を継ぎ山県昌景となる。
心機一転した昌景は武田信玄の主要な合戦において活躍、信玄の臨終の際には馬場信春と共に後事を託される。しかし、ドラマと異なり勝頼との反りはあまり合わなかったという。
長篠の戦いでは撤退を進言するも容れられず、「犬に説教してもはじまらぬ」と揶揄したとも伝わる。戦では左翼を担当し、徳川家康の軍勢に攻めかかったが崩すことはできず討ち死に。最期は鉄砲で手を負傷しながらも口に采配を咥えながら突撃・指揮を繰り返したという。

内藤昌秀

武田四天王の一人。内藤昌豊の名が広く知られている。父親は工藤虎豊であったが、信玄の祖父である信縄の死去に伴う家督争いにおいて武田信虎に背き出奔、後に帰参するも再度信虎に諫言したことを契機に処断されてしまい、流浪の身になるなど苦労を重ねていた。信玄の代に見出されて活躍し、川中島の戦いでは別働隊大将に抜擢され、永禄12年(1569年)には昌景同様、断絶していた名跡・内藤氏を継ぎ内藤修理亮昌秀を名乗るようになった。この頃に戦死した浅利信種の後任として箕輪城代となり、西上野衆を率いた。これだけの活躍にも関わらず、信玄からは感状を一枚ももらっていないが、信玄曰く、「昌秀ならば常人を超える働きがあって当然」として扱われていた。親に「百点が当たり前」と言われている秀才と同じ扱いである。ちなみに昌秀も「合戦の勝敗は大将の采配次第なので自分の武功にこだわるのは些事である」と気にしていなかったという。(このような扱いのせいか、2023年9月に配信開始されたスマートフォンアプリ「信長の野望・出陣」では武田四天王唯一のSR枠である。山県昌景は未実装だが四天王筆頭でおそらくSSR確定、馬場・高坂はSSRで実装なので不憫すぎる。)
長篠の戦いでは山県昌景とともに左翼を担当。本多忠勝の軍勢や織田本隊と死闘を繰り広げるが、大勢が決した後、馬場信春と共に殿軍を担当し、徳川軍に属していた朝比奈泰勝により討ち取られた。

馬場信春

武田四天王の一人。信房としても知られる。四天王の中ではやや年かさであり、武田信虎の代からの家臣である。当初は教来石景政を名乗っていたが、諏訪・伊那攻めの功績から断絶していた名跡・馬場氏を継いだ。その後、武田家の主要な合戦の多くに参戦し活躍するも常に無傷であり、武田の猛将・原虎胤の名乗りにあやかり「鬼美濃」の異名を取った。現代では「不死身の鬼美濃」と称されることも多い。
長篠の戦いでは右翼の中心に配属され、佐久間信盛と対峙。一時は敵陣を奪取する活躍を見せ、やはり無傷であったが、大勢は敗北に傾く。やむなく勝頼に撤退を進言し、その後は殿軍として勝頼の退却を見届け、奮戦の末原田直政の配下に討ち取られた。その最期は「信長公記」においても「比類なし」と称された。

真田信綱・昌輝

智将・真田幸隆の長男・次男にして、後に「表裏比興の者」として知られる真田昌幸の兄に当たる兄弟。兄・信綱は三尺三寸の陣太刀・青江貞を振るう豪傑、弟・昌輝は信玄の小姓として活躍し信玄に「わが両目」と言わしめ、兄とは別に家を立てるのを許されたほどの名将であった。長篠の戦いでも馬場信春とともに戦ったが、鉄砲隊の銃撃により兄弟ともども戦死した。

彼らを始めとする多くの武将を一気に失った武田家は領国の動揺を招き、外交方針の大きな転換を必要とするようになる。また、徳川家は三河における実権を掌握し、対武田戦線を有利に進めるようになった。

歴史の転換点となった長篠の戦い。武田信玄が育て、またその偉業を支えた名臣たちは次代・勝頼の決断によってこの世を去ることになったのである。


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