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せんせいのお話し

 年末友人に誘われて吉祥寺の小さな映画館で「世界で一番ゴッホを描いた男」を観て来ました。
http://chinas-van-goghs-movie.jp/

 誘われて行ったために、内容も何も確かめずに行き、ヨーロッパの美しい景色から始まるだろうと勝手にイメージを膨らませていました。ところが 中国広東省 大芬(ダーフェン)複製画の街 複製画を描く男の話でした。

 男は800枚 1000枚とゴッホの絵を描きます。ひまわり、ひまわり、ひまわり、自画像、自画像、自画像と書き続け本物のゴッホの絵は見たこともありません。写真やネットの絵を見て描いていきます。小さな工場の様な場所では、同じように描く若者もいて床に眠り、起きては描き、上半身は裸の状態。
 
単に複製画を見ていれば、それは上手で問題は何も感じませんが、本物のゴッホを見た男は、愕然とします。
やはり比べると、色も何もかもが違い、何より品が無いように思えてなりませんでした。本物の絵の良さが解る私ではありませんが、少しの黄色の明るさや暗さの様なものが、全く違うものを作るのだと感じる事が出来ました。

 男は、自分の絵が、自分が売る10倍もの値段で画廊ではなく、土産物屋で売られている事を初めて知り、「自分は何なのか」を考え始めます。

 私がこれを観て強く思うのは、「評価」です。
男は毎日毎日描き続ける自分のゴッホに誇りを持ち、ゴッホに近づいていたかのように思っていたものの、実際のゴッホを見る事によって、自分に対する人の評価を知ってしまいます。土産物屋の前でどんなに自分が描いたのだと声をあげても、そんな事はだれもがどうでもよい事だったのです。

 「評価」の多くは他人が与えてくれるもので、場所 立場 環境で全く変わってしまいます。そしてその「評価」を自分の中へどう入れるかは、自分の自由ですが、場所や環境が違うと変わる事を知らなければ、1つの「評価」だけを自分の中へいれてしまいます。

 男は全く違う場所で自分への評価の低さに愕然としていうわけですが、この反対も多く起こっていると感じます。人は何だかんだとずっと「評価」されていきますが、ある所では低く「評価」されていたことが、別の場所では高く「評価」されることもあるのだと思います。

 人のあるいは場の「評価」を自分がどう受け入れていくのかは、小さい時から常に他人からのものが正しいかのように思わされてしまっている状態はとてもつまらないですし、自分を「評価」する術を知らずに大人になってしまう可能性もあるように思え、ゴッホを描く男が実際にゴッホを観ながら、自分を見失っていく状態によく似ていると思います。

 男は本物を観る事で、自分の絵を描きたくなるのですが、信頼できる相手や場を通し自分を「評価」出来た時、きっと次への道を広げる事が出来ます。そんな「評価」が本当の「評価」なのではないかと思いますし、それは常に変化していくものなのだと思えます。

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