やる気と前向きさ

今日は12月20日に会社で一人、退職するので、その引継ぎとして一部を配ってもらうために、うちの配達員では最年長の方に、配達区域を覚えてもらうべく、順路取りを朝刊後に行った。

9月に1人退職し、そして、今回12月も末ごろにもう1人と、2人退職することで、シフトを回すのもかなり厳しくなるというのが現状だった。俺自身、正直、新聞の仕事に昔ほどの熱意や情熱も失せている。

それは新聞報道の内容や、組織の在り方に対して、やはり自分には合わないなと、結論じみたものを既に感じているから、だというのが大きい。

とはいえ、純粋に、新聞配達は好きだし、バイクの運転をしながら、日々、街をめぐり、階段をかけあがり、朝焼けや星空を見ながら、誰も行かない路地裏の奥の奥に行くような、日々、何かしらの小さな変化を感じることができるこの仕事が、未だに好きであるということも変わらないことだと思う。だからこそ、21年も続いているのだと思う。本質的には性に合っている。

仕事は一人で成り立つものではないから、全体として一つの塊にならないと成り立たない。

誰か一人の支える部分は限定的であるかもしれないが、その部分がなくては、全体が成り立たないということは、常にある。

自分だけの仕事を、やればいいというわけには本質的にはいかないが、とりあえず自分の責任や、与えられた領分を果たすというのが、普通の考え方かもしれない。見返りの分だけ仕事をする。それ以上は、理屈の上では必要ないということになる。

しかし、繰り返すけれど、本質的には一人一人の仕事が完結して、かみ合ったうえで全体が成り立ち、全体の仕事として、サービスとして形となり、全体の仕事として売り上げが上がり、対価が得られて、働く一人一人の報酬として還元される仕組みとなる。

新聞配達という仕事は基本的にはダブルワークの一つとしての選択肢なので、大きく生活リズムが変わったり、負担が増えたりするのは、働く人にとっては日々の影響が大きい。

まして、どの仕事にも言えることだけど、基本的には同じことの繰り返しの中で、日々、小さな変化があるというものだ。

得られる利益、得られる報酬という部分では、そうそう毎回、変わるものではないし、しかし、淡々と毎日の配達を完結させて、1か月ごとに報酬を得る。

その代り映えのない毎日を、自分の意志と体力で、終わりの見えないような繰り返しを、淡々と確実に継続していくことが、誰にでも求められる。それはどんな仕事でも変わらないと思う。

やめる人とやめない人の違いはなんだろうか?

俺は少なくとも、仕事が長く続くほうではなかったから、やめる気持ちはよくわかる。

この代り映えのない変化や進歩のない毎日に、耐えられなくなるということもあるし、とある日に起こった、ささいな感情の起伏を自分の中で拡大させて、それをやめる理由の決定的なものに、自らしてしまうということがあると、少なくとも自分を省みるとそう思う。

今回、仕事の引継ぎをお願いした方の言葉の中で、「新しいところを配れるのがとても楽しい。」という言葉があって、俺自身も、その言葉に初心を思い出される思いがした。自分が知らない風景を知る、知らない街の顔を知る、それこそが、この仕事の醍醐味なのだと。

めんどくさいとか、疲れるとか、大したメリットも、稼ぎにもならないとか、なんで自分が?ほかの人がやればとか、などなど、やらなくてもいい理由はいくらでも出てくる。無駄に責任を背負って、責任を取らされるという考えにだってなる。

しかし、仕事をやる上での「楽しさ」、この前向きな気持ちがあれば、フォーカスを向けることができれば、お金の問題も、時間の問題も工夫次第では、乗り越えることが究極的にはできるのではないか?

少なくとも、自分がささいなネガティブな出来事に自分の意識をフォーカスさせるのではなくて、前向きな仕事で日々、得られること、淡々と流れて、進んで、繰り返されていく日常を、ささやかに楽しみ、愛することができたなら、

今日という日はいつも、ありがたいこと、文字通り、有難いことで、二度と戻ってはこない今日で、明日があるかどうかは、究極的には確定していないのだということを、おぼろげながらでも意識できるかもしれない。

その今日をまた進むことができることの価値、すなわちありがたさは、ぱっとしないことなのかもしれないが、幸せなことではないかと感じる。

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