0か1、0か100の思考

自分の欠点というか修正として、0か100の思考、つまり、完璧主義の問題があげられる。

完璧主義のいいところは、一つ一つをきちんと詰めて丁寧に、それこそ完璧を追及してやれることではないかと思う。

いい加減に、たくさん手を広げるのではなくて、一つを究極的に仕上げていく。これは、いい意味で完璧主義の恩恵だと思う。

一方で、デメリットも多い。まずは、取り掛かりの腰が重いこと。

一つ一つをきっちり仕上げようとすると、自分の中のモチベーションレベルやコンディションがかなり高いレベルにないと、取り掛からない傾向があるように思う。また、視野が狭くなる。

広く全体を見渡すのではなくて、目の前の、その事一つに意識を強く注ぐので、パッとした視野の切り替えが難しく、全体からのバランスの判断が弱い。また、作業の進捗スピードも遅い。

完璧にやろうとするから、妥協ができずに目の前の1つ1つの完璧にこだわるから、なかなか前進できない。場合によっては立ち往生してしまうこともある。

これを人生にあてはめらたら、完璧にならない人生は、それだけで価値がないという思考にもなってしまう。理想と果てしなくかけ離れてしまって、自分の可能性も、年齢を重ねるたびに失い、社会の自己責任や、立場、地位、言動、行動を求めてくるような風潮の中で、世の中のスタンダード、平準的価値観に自分のモノサシを漠然と合わせていると、それだけでも自分を簡単に見失ってしまう。

若い人が自殺するのは、そういうことと大いに関係があると思う。

完璧にならない自分の人生、生活、将来への可能性、そういったことへの完璧さを求めるあまり、現実とのギャップから絶望してしまう。

もう、何をやっても意味がない、無駄だと、また、生きていること自体、無価値で無意味、何も楽しくない。生きていることが苦痛で、早く終わらせたい、死にたいと思うようになる。そういった心理ではないかと思う。

少なくとも若いころの自分はそういう思考に支配されている時期があったと思う。

ここで、0か1の発想で行くことを考えたい。自分の求める基準をつまりは前進だと認識できる最低限に照準を合わせるということだ。

その最低限の前進を、どれくらいの程度に合わせるというのが、一つのコツというか奥義的要素だと思う。何をもって前進とするかに焦点を合わせるのが0か1かの発想だ。

0か100かの発想で言えば、自分の完璧をどの水準に合わせるかということに、対になる。どちらがいいかと言えば、それは一概には言えないし、この二つの思考法の使い分けができることが理想ではないかなと思う。

ただ、自分を観察したときに偏りとして感じるのは、0か100かの思考に偏っていると、少なくとも自分自身に対しては思う。だから、意識的に0か1の思考を意識して、そちらに寄せたい。

放っておいても完璧主義に偏るのだから、1の前進をとにかく良しとして、いろんな要素に対して、何をもって前進するか、そこに発想の着眼点をおいて、まず1を得る。いろんなジャンルの1を得る。

そして、その1を途切れなく継続させていくという、そういう方向性でやっていきたいと最近は思う。それは完璧主義でうまくいかなかったという思いがあるから。

1を継続する。それは時間にすると5分と設定したい。完璧主義で言えば、一つのことに3時間以上、一回で集中して取り組めることが理想だが、まず最初の5分を作れるか作れないか、それをもって1として、今日という日に1を作り出せるか、さらに、明日もそれを継続できるか。

さらに習慣化の一つの基準である3週間、3か月、3年という潜在意識の法則性に沿うことができるか、つまりは自分の中にセルフイメージを作る。

その行動が当たり前で、心理的抵抗がまるでない状態までもっていけるか、そこが人生が変化していくカギだと、最近、学んでいて思う。

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