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文化人類学の視点から愛と死を考える、お話。

 コクヨのポッドキャスト「愛と死の人類学ーお葬式は誰のために?ー」で、パプアニューギニアのラバウル・トーライ文化を研究している深田さんのお話を拝聴した。船旅で数度訪れたことはあるものの、ここまで深く掘り下げてトーライ文化についてお話を聴くことができる機会は初めてだったので、とても興味深く聴かせていただいた。

深田さんのお話はこのような内容だった。
 トーライの人が亡くなると、コミュニティの人びとほぼ全員を巻き込んで、セレモニーを行うが、それはまるでお祭りのようなものだ、と。

 そして亡くなった人がこれまでずっと貯めてきたお金(現地では貝殻のお金)を全て、訪問してくれた人たちにばら撒いてしまうと。生きている間に関係を持った人、お金の貸し借りを全て「0」に戻したところではじめてその人は旅立つことになるという。       

このセレモニー、いわゆる葬式の場面では、死=悲しみ、寂しさだけではなく、怒りや喜びも含めて集まった人たちの間で様々な想いが交錯し、それらを可視化される場所になっている。周りの人をどうやって巻き込んで生きていたのか、人が生きるとはどういうことなのかというものが感情豊かに、色鮮やかにそこの場に居合わせた人たちみんなが共有することができるということはとても豊かな時間であるなと思った。
 改めて、人が生きるということはどういうことか?それは大いに迷惑を掛けるてもいいのだと思う。

 昔の友人の葬式に呼ばれて微妙か感じがする、とか、多くのシニアが「死ぬときは人に迷惑を掛けたくない」という考え方は上記のトーライ文化の人々とは真逆の考え方だ。今の日本ではたったひとりで死を迎える人さえおり、トーライの人々からすれば寂しすぎる死であろう。

 人との関わりが希薄になっていることと人生の幸福度の低下には関連性があるかどうかわからないが、関わりが少なくなればその分喜怒哀楽を表出する場面が減ってしまい、それって豊かな人生とは言えない。面倒でも迷惑をかけてもひとりとじっくり向き合っていくことは豊かな時間や学びを得ることができるなあと思った。


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